子どもも教員も保護者も、すべての人の意識改革を目指す

「先生や保護者に『ああ、何だかまた新しい言葉が出てきた……』と思わせてしまわないように、必要性や目的を丁寧に説明しています」

現場の苦労に理解を示しつつそう語るのは、埼玉県の吉川市教育委員会で特任教育支援員を務める大西久雄氏。同氏が指導する吉川市の「デジタル・シティズンシップ教育」とは、ICT機器やインターネットの利益とリスクを理解して活用し、よりよい選択や行動ができる市民を育てるための学びだ。

これまでの「情報モラル教育」は危険性や倫理面での指導が多く、その利用を制限する意味合いが強かった。それに対しデジタル・シティズンシップ教育では、自分で行動を決める力を育てることに力点を置く。

「現代の子どもたちは、嫌でもデジタル社会を生きていく世代です。単に大人が禁止したり抑制したりするだけでは意味がありません。自分で考えてICTを活用するという意識は、探究学習で伸ばしたい力とも重なる部分が多いもの。現状に即した教育を実践することは非常に重要だと思います」

埼玉県内の中学校校長などを歴任してきた大西氏は、現役教員時代、子どもたちがインターネットを通じて危険に巻き込まれる実例を何度も目にしてきた。適正な教育を受けてこなかった彼らは、デジタルネイティブ世代と呼ばれながらあまりに無防備だ。そうした危機感から、大西氏は吉川市で指導を行うほか、埼玉県内の大学でも非常勤講師として教えている。

「教員を目指す学生にも『ICTのよき使い手』としての意識を持たせ、ゆくゆくは子どもたちに正しい指導ができる教員になってほしいと考えています」

吉川市教育委員会 特任教育支援員・大西久雄氏
(撮影:風間仁一郎)

大西氏が教える対象は、子どもや学生だけではない。吉川市では教員のほか、子どもの保護者にも研修・講義を行っている。重視するのは表面的な使用法ではなく、それぞれの立場での意識改革だ。

「子どもたちはすぐに機器に慣れるし、いくらでも使いこなす力があります。教員の指導でその力はさらにアップするのです。先生のやることが増えるような押し付けではなく、ICTを活用した授業のアイデア集や子どもが楽しめるちょいテクなど、仕事をするうえでのメリットを伝えています」

保護者向けの講義にも明確な狙いがある。学校の外でも、保護者が子どもに適切な指導ができるようになることが1つ。もう1つは、学校現場と家庭との相互理解を深めることだ。そのために対面やオンラインの講座を行うほか、「よしかわICT教育通信」を月に1度発行。メールシステムを使って保護者にデジタル配信している。担当するICT教育推進担当主事の長谷川良氏は、反響に手応えを感じていると言う。

「ICT教育推進に当たっては、それに不安を抱く保護者との間にギャップが生まれることもありました。『知らない』ことが不安につながってしまうこともあるため、毎月、市の取り組みや進捗、学校現場の様子を周知するようにしています。保護者からは『子どもたちが端末でどんなことを学んでいるかがわかって安心した』などの反応もありました。今後も継続していきたいと考えています」

吉川市教育委員会 ICT教育推進担当主事・長谷川良氏
(撮影:風間仁一郎)

「ICTを活用して何をするか」成果発表のステージも用意

教育通信の発行以外にも、SNSなどを活用して情報発信に注力する同市教育委員会。保護者の理解とリテラシーを高めることが、教員の負担削減にもつながるかもしれない。

「私が現役の頃も、インターネットやスマートフォンなどの子どものトラブルを、すべて学校に持ち込む保護者がいました。そうしたことが重なれば、教員はリスクばかりを考えて、禁止の方向へと動いてしまうのは仕方ないことです。しかし、自分自身が痛い思いをしないと、子どもはなかなかわからないというのも事実です」(大西氏)

取り返しがつかないことが起こる前に、学校の中で「取り返しがつく程度の痛い思い」を体験しておく。それが子どもの身を守ることにもなると大西氏は考えている。

「オンライン上のコミュニケーションツールでも、子ども同士で『その言い方はないんじゃないの?』など、いざこざが起きることもあります。そうした実際の出来事の中で、子どもたちは言葉の選び方や情報の受け取り方を学んでいく。小学生向けのコミュニティーにルールを破って中学生が入ってきたことがあったのですが、小学生がそれを冷静に指摘していて、感心したこともありました」(大西氏)

オンラインと対面のハイブリッドで行った児童向け講座(左)。学年や進度に応じさまざまなスライドを使用(右)

吉川市のデジタル・シティズンシップ教育では、伸ばしたい力として5つのキーワードを掲げている。多様な視点を持ち、他者に共感する「インクルーシブ」、多様なメディア情報を正しく評価する「情報力」、テクノロジーを用いた問題解決力とそれに貢献する「活動参加」、使用時間や優先順位を確立する「バランス」、そして他者と自分の安全を確保する「アラート」だ。大西氏は、これらを「あくまでスタート地点」だと言う。ICTツールは単なるツールにすぎず、重要なのはそれを活用して何をするかということだからだ。

「何をするか」を問うステージとして、市は「児童生徒プレゼンテーション大会」を開始した。対象は市内の小学5年生から中学3年生。昨年に続き2度目の開催となる2022年度には18組がエントリーした。「私こそ令和のかたりべ」のスローガンの下、子どもたちは「吉川市をよりよくするための提案」をテーマに考えた。自らが少年消防クラブに入っていることから消防署に取材し、活動の周知を試みた子どももいれば、市の食文化であるナマズを活用しようと提案した子どもも。各自の関心に基づいて探究活動を行い、ICTを駆使してスライドを作った。

この大会を担当し、大西氏と共に大会のブラッシュアップを図る松岡伸悟氏(ICT教育推進担当副主幹)は、さらなる活性化を期待している。

「大会当日は市長や教育長も見守る中でプレゼンが行われ、優秀者には賞も授与されて自信につながったと思います。今年は夏休みに行った『プレゼン力養成講座』の受講が大会参加の条件でしたが、将来的には、学校の授業で作成したスライドで、そのまま大会にエントリーできるような体制を整えたいと考えています」

吉川市教育委員会 ICT教育推進担当副主幹・松岡伸悟氏
(撮影:風間仁一郎)

広域・包括連携と多様な働き方が守る、もう一つの市民権

大西氏は吉川市のほかに、同じ埼玉県内の幸手市でも市教委のICT教育専門員を務めている。そうしたことから、吉川市と幸手市は互いの経験や教材を共有しながら、連携を取ってICT教育を進めている。大西氏はこのように、デジタル・シティズンシップ教育を「包括的」かつ「広域的」に行う必要性を説く。

「一部の市町村だけが熱心に取り組んでいても、全体の意識を変えることはできません。地域によって格差が生まれてしまうことも避けたいものです。企業と協働することも一案だとは思いますが、データや利益が得られない場合は協力してもらいにくい。吉川市では無料で使えるツールを教育委員会で独自に制作するなどしていますが、こうした成果をほかの自治体に公開し、どんどん活用してもらえたらと思っています」

毎月発行の教育通信(左)。市オリジナルの健康観察ツール。この9月から市内の2校の小学校で実証実験中(右)

また、広域的展開は、教育現場が抱える別の問題への対処法でもある。

「今、私は吉川市で週に2回勤務しながら、ほかの時間で幸手市や大学、他県での講演なども行っています。こうした形で人材を活用することができれば、地域にとっては情報共有の機会にもなり、教員にとっては多様な働き方の選択肢になります」

幸手市も吉川市も決して規模の大きな自治体ではなく、教員や指導員の数も限られている。教員のなり手不足なども取り沙汰される昨今、フレキシブルな環境で人材を育成し、効率的に動いてもらうことも重要な課題だ。松岡氏もこう語る。

「大西先生のおかげで吉川市のデジタル・シティズンシップは着実に進んでいますが、いずれは学校の担任が自分たちで考えて、直接子どもを指導できるようにすることが目標です。現在はそのための知見を蓄積している期間。毎日子どもたちと向き合っている教員だからこそ、ICT教育でできることもたくさんあると思います」

日本人にはピンとこない言葉かもしれないが、シティズンシップ=市民権には、「一人ひとりの権利や自由が保障され、尊重される」という意味がある。松岡氏の言う「学校の担任が自分たちで考えて、直接子どもに指導できる」こと、大西氏の言う「多様な働き方の選択肢」が示されること。これらは教員にとって大切な市民権といえるのではないだろうか。

人材育成や教員の働き方、スキルアップも含めて取り組む吉川市のデジタル・シティズンシップ教育においては、教員のシティズンシップも議論の範囲外ではないようだ。

(文:鈴木絢子、注釈のない写真:吉川市教育委員会提供)