学習ダッシュボードの導入で何が変わった?
今年6月から横浜市教育委員会が運用を開始した「横浜 St☆dy Navi(以下、スタディナビ)」は、いわゆる学習ダッシュボードだ。同事務局学校教育企画部教育課程推進室長の丹羽正昇氏は、「1人1台端末を使った新たな学びの創造」の推進と、同市が中期目標としている「教育DX」の観点から導入に至ったと話す。
「スタディナビ」では、児童生徒が入力したデータを教職員が自身の1人1台端末から即時に確認できる。例えば、毎朝の身体や心の調子を入力する健康観察、授業ごとの振り返りなどの授業アンケート、自学自習用の「はまっ子デジタル学習ドリル」などだ。このほか教職員は、横浜市独自の学力・学習状況調査の分析チャート、体力運動能力調査の結果なども見ることができる。
「今後は、図画工作や美術などで自分が作った作品や、音楽の時間に披露した歌や演奏を1人1台端末で録音・録画して残すなど、学習プロセスを振り返ることができるポートフォリオ機能も開放する予定です」
まだ導入して半年ほどだが、どのような活用の仕方が見られるのだろうか。
「まず健康観察については、スタディナビを使うことにより、端末で学校長をはじめ教職員全員が情報を共有できるので、児童生徒の不調の早期発見や対策が可能となりました。健康観察に応じない児童生徒も、それ自体が答えだと捉え、声かけなどの対応を取っています。職員室の大型モニターで児童生徒の状況を見える化し、養護教諭や支援員も含め情報把握ができるようにしている学校も。同じく授業アンケートやドリルの進捗状況についても教職員全員で情報共有できるため、児童生徒を真ん中においた議論や対応がより充実し、具体化していく効果もあると考えています」
実際、丹羽氏が学校に行ってみると、児童生徒たちの端末活用が今まで以上に日常化したように感じたという。
「例えば登校後は机の上に端末を用意して健康観察をするところから始まり、ロイロノート・スクールで昨日できなかった課題をやったり、教職員から配布された学習資料に目を通したりと、朝の時間を有効活用できるようになっています。教職員も端末を念頭に置いた授業づくりに注力し、授業のあり方もずいぶん変わってきています。今後はAIドリルも導入し、どんなログをどのタイミングで取るかを議論したうえで学習ログを集め、児童生徒1人ひとりのオーダーメイドな学びが可能となるようにしていきたいと思っています」
「教職員・専門家・企業」の3者で共創
ただ、データ活用の際に必ず問題となってくるのが個人情報の取り扱いだ。横浜市では、スタディナビの導入前にほとんどの保護者から同意を得ることができた。同意できない家庭については、例えばオンラインで実施している市の学力・学習状況調査は紙でも受けられるようにするなど、意向を尊重する形で個別に対応しているという。
「現状、福祉系のデータは連携しておらず、スタディナビは校内の利用に限定しています。今年度中には端末の持ち帰りができるようにする予定ですが、シングルサインオンかつ児童生徒の個人情報とアカウントの照合を学校以外ではできないようにするなど、学校外でもセキュアに使える準備はすでに整っています」と、丹羽氏は説明する。
集めた教育ビッグデータを活用するため、今年9月からは「横浜教育データサイエンス・ラボ(以下、ラボ)」という取り組みも始めている。若手~中堅の学校教職員と大学の研究者、データ分析などの専門技術を持つ企業関係者の3者で共創していく座組みとなっており、扱うテーマによってメンバーは変動するという。
「こうした立て付けによるデータ分析の取り組みは本市が初めてではないか」と丹羽氏は話す。第1回のラボには、教職員15名程度と、慶応義塾大学、横浜市立大学、横浜国立大学、千葉大学、名古屋大学、OECDの職員、内田洋行、NTT東日本などが参加した。
「本市は2005年から独自の学力・学習状況調査を実施して約26万人の児童生徒のデータを集めてきており、これまでアウトプットとしてはグラフ化した分析チャートを各校に配布してきました。ただ、学校内では必ずしも有効活用されていないことが課題となっており、専門的な知見やスキルを持つ大学や企業の関係者と一緒にデータを解析していく必要があると考えました。下田康晴教育長が言う『データは子どもたちに還元されなければならない』という前提に立ち、ラボを通じてデータの利活用の可能性を検討していきます」
ラボでまず取り上げたテーマは、「算数科、数学科の学力と意欲の分析」と「子どものこころの変化をとらえ、安心な学びの環境をつくる『横浜モデルの開発』」だ。
「本市の学力・学習状況調査は2022年からIRT(項目反応理論)型に変えたのですが、これにより1人ひとりの学力の伸びが把握できるようになりました。例えば、文科省の全国・学力学習状況調査においては、横浜市の児童生徒の正答率は全国平均と同等かそれより高いのですが、IRT調査で見ると伸び悩んでいる子が相当数いることがわかりました。それまで教職員たちが『算数から数学への移行段階でつまずく子が少なくない』と何となく感じていたことが、このIRT型調査を始めてからデータで可視化されるようになったんですよね。そうした経緯もあり、教職員の知見を生かしてデータを分析し、算数や数学でつまずく要因や意欲の背景などを明らかにしたいと考えているのです」
子どもの心の分析をテーマとした背景としては、コロナ禍がターニングポイントになったという。
「コロナ禍以降、精神的な不調を訴える子どもたちが全国的に増えました。とくに家庭生活よりも学校生活が子どもたちにストレスを与えることがわかってきています。それが不登校などさまざまな課題につながっているため、子どもたちのメンタルヘルスを向上させ、安全な学びの環境をつくっていきたい。そのために、横浜市立大学医学群と共同で研究を進めることとなりました」
教育を“哲学”する「アカデミア」もスタート
今年11月21日に開催された2回目のラボでは、横浜市立大学との共同研究契約の締結式を行うとともに、「子どもの心の変化をとらえ、安心な学びの環境をつくる『横浜モデルの開発』」の具体的な取り組みについても発表した。
将来的には、リアル(学校・大学・区役所・児童相談所)・オンライン(スタディナビを使ったAIチャット相談)・バーチャル(メタバース空間内でのバーチャル相談)の3層空間で子どもの心のケアを行っていく方針だという。まずは小学校1校、中学校1校をモデル校に指定し、スタディナビに手立てを順次実装して運用していくという。
「有効なデータ分析を行うには大きな母数が必要ですし、ほかの自治体でも参考にできるパターン化も可能になります。ラボを通じて課題解決していくという取り組みは、四国4県に匹敵すると言われる約26万人のデータがある横浜市だからこそ、できることなのかもしれません」
2025年度からは「横浜教育イノベーション・アカデミア(以下、アカデミア)」も立ち上げる(12月中に試行予定)。「横浜教育データサイエンス・ラボ」と同様の座組みで、約50の大学と教職員、現役の大学生や大学院生、企業関係者などが集ってオンラインやメタバース空間で議論や研修をする場にしていくという。
「例えば、AIドリルを使ってどのような授業を行っていくか、生成AIは教育現場でどのように活用されるべきかといったテーマについて、大学関係者や教員を目指す大学生・大学院生などが、オープンエンドな議論をしていく予定です。ラボは教員の経験・勘と教育ビッグデータを基に仮説を立て、アカデミアはその仮説を検証してラボに対して具体的な手立ての提案やデータ分析の提案をし、ラボはまたその助言を基にデータ解析や学校でのモニターを行う。そのようにラボが教育を『科学』してアカデミアが『哲学』する形で学びをつくりあげていく体制を確立したいと考えています。
本市の中期計画に教育DXが位置付けられていること、また教育長が以前、本市のデジタル統括本部の本部長を務めていたことなどからも、教育データの活用は非常によい状態で走り出しました。横浜市のデータの特徴は、約26万人という密度の濃さ、そして小・中・義務教育学校・高等学校・特別支援学校を合わせて505校もの学校があるという多様性にあります。しかも、1人の教育長でグリップしている事例はほかにありません。こうした強みを生かし、新たな学びの形を創造していきたいと考えています」
(文:國貞文隆、注記のない写真:横浜市教育委員会提供)