広島県で広がる公教育の選択肢
瀬戸内海に浮かぶ小さな島、大崎上島に国際バカロレア認定校「広島県立広島叡智学園」が開校したのは2019年4月。グローバルに活躍できるリーダーを育成する国際的な教育プログラムで、世界各国の大学への入学が認められる大学入学資格(国際バカロレア資格)を得られる学校だ。
20年4月からは、県立尾道商業、県立広島商業、県立呉商業、県立福山商業の4つの商業高校で「ビジネス探究プログラム」がスタート。商業高校における学びのアップデートを目指し、今本当に必要な力を身に付けてもらうためにプロジェクト型の授業を行っている。
22年4月には、広島県福山市にイエナプラン教育を実践する小学校、市立「常石ともに学園」が開校した。オランダで盛んなイエナプラン教育の大きな特徴は、1〜3年生、4〜6年生の異年齢集団でグループをつくり、「対話・遊び・仕事・催し」を基本とした教育を行うこと。科目ごとの一斉授業ではなく、一人ひとりのペースに合わせた学びができる常石ともに学園は、公立校としては日本初のイエナプラン教育校となる。
これだけではない。県内の小学校7校、中学校25校、義務教育学校1校では、不登校や特別な支援が必要な児童生徒を支援する「SSR(スペシャルサポートルーム)」を設置。しかし、SSRにも来ることができない児童生徒もいる。そうした子どもの居場所として、県教育委員会は22年4月に教育支援センター「SCHOOL“S”(スクールエス)」を東広島市に立ち上げた。
いわば、県教育委員会が運営するフリースクールだ。東京大学 先端科学技術研究センター 教授の中邑賢龍氏が名誉校長を務める。「SCHOOL“S”」では、中邑氏が主宰する「LEARN」プロジェクトの広島版「東大LEARN in 広島」を行い、探究学習を実践する。
公立で選択肢が増やすことに意義がある
これらすべてが公教育で行われていると聞くと、「だいぶ公立も変わったな」「こんなことが公立でできるのか」と驚くのではないだろうか。いったい広島県では、どんな教育を実現しようとしているのか。広島県教育長の平川理恵氏は、こう話す。
「私自身、子どもの頃から『日本は食べ物や着るものは自由なのに、どうして学校だけはこんなに窮屈なのだろう』と思っていました。今までの日本のやり方は、1時間目は算数、2時間目は国語と、一律に教えるというもの。けれど人は一様ではありませんから、選択肢が必要です。それに、自分で選べば、自分で責任を取ることにもつながります」
公立校の選択肢を増やすことには、2つの意義があると平川氏は指摘する。
1つは、保護者の経済的な負担を増やすことなく子どもの選択肢を増やせること。もう1つは、県全体の教育の活性化につながるということだ。
公立校には教員の異動がある。イエナプラン教育校や国際バカロレア認定校、SSR設置校のあり方や教育を実践した教員が各地に異動すれば、県全体の教育を変えていける。このように、学校教育の選択肢を増やすことで、広島県が目指す「コンピテンシーの育成を目指した主体的な学びの充実」を実現しようというわけだ。
広島県知事自ら「組織風土を変えて」と依頼
平川氏が広島県教育長に就任したのは2018年のこと。リクルートで営業職を経験後、30代で留学仲介会社を起業。その後、公募で神奈川県の中学校校長に就任したという異色の経歴の持ち主だ。そんな平川氏を抜擢したのは、広島県知事・湯﨑英彦氏だった。
「湯﨑さんから言われたのは、『学校や教育委員会の組織風土を変えてほしい』ということ。何を言っても許される自由闊達な組織風土にしてくれと。どんな組織でも意見交換ができない限りイノベーションは起こりませんから」
就任した平川氏が、まず行ったのが学校訪問だ。県教育委員会が管轄する高校だけでなく、小学校、中学校、義務教育学校も含め、1年間で158校を訪問した。現場主義を貫く理由をこう述べる。
「今は一億総評論家の時代。誰でも意見は言いますが、それを実現するために必要なのはアクションです。現場は学校と教室であり、先生と子どもの関係こそがすべて。いくらきれい事を並べても、子どもが燃える授業になっていなければ駄目で、現場が動いているのを確認しながら次を進めないとならない。現場に行くとわかることがたくさんあるんです。何度も行っていると、占い師のように、問題がある所に自然と足も向く。現場がいちばん困っていることを聞いて、その費用を申請できるように対応もします」
例えば、GIGAスクールで1人1台端末はそろったがプロジェクターがなくて困っていると聞いて、3年で整備する計画を立てた。不要なものがそのままになっている学校に出向いた際には、実はゴミを捨てるお金がないということがわかり、費用を申請できるように対応したという。就任して4年が経った今も平川氏は学校訪問を続けている。
「私の仕事は変革のスイッチを押すこと。それは現場を見ないとわかりません。探し当てたらスイッチを踏みまくって、再びその現場に行って変革がうまくいっているか確認し、政策を回していくのです」
平川氏が変革のスイッチを探して押す場所は、学校だけではない。教育委員会の事務局でも毎日フロアを回って職員と話し、時には「残業パトロール」と称して帰宅を促す。若手の指導主事が意見を言い合う場を設け、教員と教育委員会が話し合う場も設けてきた。
「教育委員会も、職員室も、若い人からベテランまで、みんなが意見を言える場にしなければ。教員自身、指導主事自身が『何でも話せる場』をつくるファシリテーターになってほしいのです。大人ができないことを子どもにやれと言うことはできませんから」
仕事のための仕事より「子どものため」の仕事を
平川氏が見つめているのは、「その政策や、教職員の仕事の1つひとつの本質はどこにあるのか」だ。その向かう先は、すべて1つのゴールに集約される。それは「子どものためになっているかどうか」だ。
「教育と医療は、経済合理性や効率性、コストパフォーマンスという概念に偏ってはいけないと思うのです。子どもは時間をかければかけるほどよくなります。だからこそ、経済効率性を問える部分は圧縮し、必要ないことをやめるスクラップ&ビルドは必要です」
就任時、指導主事は文書作成に追われていたという。「仕事のための仕事」を減らす必要性を訴えてきた結果、公文書の原案を作成する「起案」が1割減った。
「指導主事には『必要のない事務はやらないように』と言っています。事務仕事が苦手なら事務職の人に任せてもいいし、提出する資料も完璧でなくてもいい。それよりもっと学校に行って、子どもに関わってほしいと伝えています」
さまざまな改革を具現化してきた平川氏は「お金をかけなくてもできることはある」と指摘する。「SCHOOL“S”」を立ち上げる際も、県教育委員会の職員と一緒に、教育長自ら高圧洗浄機を手に、建物の清掃や家具の設置を行った。ここにも平川氏の現場主義が貫かれている。
教員の心に火をつけ、伴走して教育を変える
就任5年目となる今年4月、平川氏は「令和4年度 広島県教育委員会八策」を発表した。これは県教育委員会職員をはじめ、県内の教職員に対し、県教育委員会が何を目指しているか、そのビジョンを示したものだ。
2. 教育の根源は、生涯にわたって学び続けるということである。幼児児童生徒も大人も、学びの習慣を身につけ、学び上手になれるよう「学びの変革」を推し進めていく。
3. 学校や教育委員会は、「我が子・我がことであれば」を旨に、「子ども基点」を貫く。
4. 根源的な問い「生きるって何?」を主軸とした探究学習を、すべての学校に汎用させ、キャリア教育と結びつけて実践していく。
5. 現場は「教室」である。教室に行って教員とともに子どもの様子を観ながらカリキュラムを創る。指導主事は、教職員の心に火をつけ、伴走し、はしごを絶対に外さない。
6. 子どもを含め年齢や職を問わず誰もが「新しいアイデア」や「率直な意見」をなんでも言い合える「組織風土」づくりを心掛け、多様な意見からより良い判断を行う。
7. 幼児児童生徒一人ひとりの自己肯定感を大切にするため、個別最適な学びや本物の体験を重要視し、不登校対策・セーフティネットを確保する。また幼児児童生徒の人権と主体性を尊重し、教師が一方的に設定している生徒指導規定等の見直しを図る。
8. 教育公務員として、高い倫理観を持つ。とりわけ、幼児児童生徒に対する猥褻セクハラは絶対に許さず、厳しく処する。
印象的なのが5番目の「教職員の心に火をつけ、伴走し、はしごを絶対に外さない」だ。その意図を尋ねると、平川氏はこう説明した。
「大人も子どもも、『自分は何者か』という問いを持つべきだと思うのです。とはいえ、探究的な学習もすぐにはできないかもしれません。けれど、誰かが伴走すれば、教員は経験値や成功体験を得ながら探究的な学習ができるはず。これまでは、国の方針も『次は○○教育だ』『今度は△△教育だ』と次々と変わってきました。すると、教職員も『どうせ』と思ってしまう。だからこそ、『いや、違いますよ。はしごは外しませんよ』とあえて書いたわけです。何のために教育委員会があるのかといえば、子どものため。学校が変わるには教育委員会が変わらないと。校長と教頭、教頭と教員、担任と生徒という関係は、すべて相関関係があり、つながっています。つながっているドミノを教育委員会から倒して、変革をしていこうと考えています」
力強いリーダーシップを発揮し、次々と政策を実現する平川氏だが、「ここまで来られたのは、教育委員会の皆さんのグッドフォロワーシップがあったからこそ」と話す。広島県の教育改革が一気に進んだのは、教育長と教育委員会の職員、そして現場の教職員が互いに伴走してきたからといえるだろう。
広島県では現在も、内申書の見直しや学校図書室のリニューアル、工業高校・農業高校のアップデートなど、さまざまな取り組みが同時多発的に進んでいる。イノベーティブな教育委員会が今後さらにどんな変革を進め、それによって学校や子どもがどう変化するのか、引き続き注目を集めそうだ。
(文:吉田渓、注記のない写真:ペイレスイメージズ1(モデル) / PIXTA)