近代以降、弱き者を守るための法律や制度がいっぱいできて、それはそれで社会の大進歩だったわけですが、その成功体験が人類にとって、強すぎました。
良い法律や制度をつくれば世の中は良くなると多くのひとが思い込んでしまった。問題が起こるたびに新しいシステムをつくることが社会課題解決なのだと信じて疑わなくなりました。そこで何か肝心なものが抜け落ちた。
合理化、効率化を最優先する思想が先鋭化しすぎて、地球上から余白や贈与がどんどん消えていきました。そうやって子どもたちの生きる世界が痩せ細っていきました。
近代的な社会制度によってたしかに人権は守られるようになったが一方で、その根拠であるはずのひとの尊厳はどんどん損なわれているという不都合な真実に、私たちはどう向き合うべきなのか——。
それでいま特にリベラルは、袋小路に入り込んでいるように見えます。日本だけでなく、世界的な傾向です。
近代社会が生み出した制度のうち、世界中の近代化に最も貢献したのが学校です。世界のどこに行っても教育といえば学校がまず連想されるわけですが、それも近代以降の人類にかけられた呪いでした。
学校は子どものためにあると、私たちは思い込まされてきましたが、これがとんでもない欺瞞であったことに最近、私はようやく気づきました。“学校制度の枠の外にある学校”という矛盾した存在であるフリースクールを多数訪ねたことがきっかけです。
学校は近代化を加速する装置にすぎず、近代以降の学校制度が子どものためのものであったことなど歴史上なかったのです。
学校を社会常識教習所に降格すべき
「どうやったら学校を、本当に子どもたちのための場所にできるのか?」という問いの立て方自体に無理がありました。初期設計からして違ったのです。喩えるなら「刑務所としてつくられた建物を、どうやったら快適なアパートにリノベーションできるか?」と問うようなものです。現場の先生たちの創意工夫に頼るのもさすがに限界です。
学校という近代化加速装置にいまこそ引導を渡し、その機能を極限まで削り落として「社会常識教習所」に降格すべきです。現代社会を生きていくうえで最低限必要な常識を子どもたちに授ける機能に限定するのです。


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