今後フリースクールは、不登校の受け皿として利用されるだけでなく、学校に行っている子どもたちにとってもその学びの主導権を取り戻すために積極的に学校と併用されるべきだろうと私は考えるようになりました。
学校のほかに学習塾に通うことがいまでは一般的になっているように(それがいいことかどうかはいったん置いておいて)、学校のほかにフリースクールという学びの場にも通うことが一般的になるといいのではないかと思います。
私が思い描く教育ユートピアでは、「社会常識教習所+フリースクール+上記5つのような地域教育の場」という組み合わせのなかを子どもたちは自由に回遊しながら遊び、学び、大きくなります。
「生きる力」を授けられると考えるのは歪んだ人間観
本当に必要最低限の社会常識を学ぶほかはその子がわくわくする学びの場を自由自在に組み合わせることができる社会を想定し、「モザイク模様の学び環境」と私は呼んでいます。もちろんすべての学びの場が、公共的な社会インフラとして、無料または極めて安価に設定されていなければなりません。
そんなことでは日本の国際競争力が落ちるという意見があるかもしれませんが、私はそうは思いません。人間一人一人の能力の単純な足し算で国力が決まるわけではないからです。いくら強い心臓と肺と筋肉とがそろっていても、それらがちぐはぐにつながっていたら強い体にはならないのと同じです。個別の部品の性能より、それらの連携が重要です。
教育課題先進国としての日本がモザイク模様の学び環境をいち早く実現すれば、むしろ世界もそれを真似するのではないでしょうか。
人間は弱い生き物ですから、一人で生きていくことなんてできません。いろんな違いをもった人間が群れて、それぞれの得意を出し合って、人情で分かちがたくつながって、はじめて一つの有機体として「生きる力」が得られるわけで、一人の人間の中に「生きる力」をインストールできると考えること自体、歪んだ人間観です。
地域社会の中で大人たちが群れて一つの有機体としての「生きる力」を発揮しているのを間近に見ることで子どもたちも群れ方を学ぶのであって、近代化加速装置の学校で子どもたち一人一人に「生きる力」を授けるなんて、どだい無理な話だったのです。よかれと思ったその発想こそがとんだ大間違いでした。
いまこそ人類として“学校”を卒業するのです。
それができたとき、リベラルは袋小路から脱出できるのではないでしょうか。それでこそ人類は近代を超えていくことができるのではないでしょうか。私たちは、社会の変え方を変えることができるのではないでしょうか。



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