「呉さんは、日本兵が使うランドセルなどの鞄を多く作っていたようです。呼び寄せた人たちにもそれを広めたのでしょうね。このあたりの在日韓国人の家には、必ずといっていいほど革が縫えるミシンがあったと、古い人は言います」(鄭さん)
1920年代前半に大阪と済州島との定期航路が就航すると、済州島からの渡日はさらに増えた。
「1960〜70年代にかけて、スポーツバッグバブルが起こります。当時人気の、某スポーツバッグ。現在もリバイバルヒットしている有名な商品ですが、当時はものすごい人気で、販売元が品切れを起こすほどでした。そこでいろんな会社がいわゆる『バッタ物』を作るのですが、その9割が、ここ三河島製だったと言います(笑)。兵隊さんの鞄を作っていた人たちにとっては朝飯前の作業だったようですね」(鄭さん)
三河島の近く、今の尾久変電所(荒川区東尾久1-21)のあたりに当時は、と畜場があった。関連の皮革工場や肥料・油脂工場などが軒を連ねていた。
「牛や豚などの肉を卸したあとに出る内臓とか尻尾、耳などは、当時の日本人にとっては不要物でした。これが在日韓国人には貴重な食材だったわけです」(鄭さん)
そうした食材、いわゆるホルモンを扱う店などが増え、長い時間をかけて都内最古のコリアンタウンが形作られるようになった。
「済州島から直接来る在日一世も多かったけれど、関西方面からこちらに来る在日韓国人もどんどん増えてきた。それも多くは済州島に故郷を持つ人たちです。この街は東京ではじめて朝鮮学校ができた場所であることも大きいでしょう。コリアンにはいろいろなルーツを持つ人がいます。でも、三河島では同じ済州島を故郷とする者たちが肩を寄せ合っている。その絆はこれからも変わらないと思います。大雑把な歴史はこんなところですね」(鄭さん)
月間7トンのキムチを売る専門店
三河島に、在日韓国人の日々の食卓を支えてきた店がある。韓国食材やキムチ、精肉を扱う「株式会社マルマン(荒川区西日暮里1-4-19)」だ。高田明栄社長の両親が1951年に始めた商いは、ミカン箱の上に乾物を並べる小さな店からだった。


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