稲荷にはかつてこの地で栽培されていた「三河島菜」についての説明書きが掲示されている。三河島菜は古くから日本で栽培されていた漬菜で、江戸時代の初期に三河国(愛知県)のお百姓が、この地に入植してつくり始めたそうだ。どうやらこの地に三河島の名がついたのは、三河国が由来のようだ。
しかし現在、「三河島」という住所はない。かつて荒川区には「三河島町(1〜9丁目)」があったが、1961年に大部分が「荒川」へと変更された。残る地域も町屋、東尾久、東日暮里、西日暮里の一部となり、1966年には住所から三河島の名が消えた。今ではJRや京成線の駅名に残るだけだ。
こうして三河島はコリアンタウンになった
そんな三河島の歴史と、韓国・朝鮮の歴史が交差するのは今から100年以上前のことだ。在日本大韓民国民団(民団)が発行する『民団新聞』の元記者、鄭眞一(チョン・ジンイル)さんに話を聞くことができた。
三河島駅のホームから見える場所にある「荒川韓國会館(荒川区東日暮里6-24-19)」。鄭さんは「まぁ、知ってることならお話しできますよ」と、こちらの質問にゆっくり、時々深く考えながら、答えてくれた。今年69歳になる鄭さんは、在日韓国人の二世だ。訥弁(とつべん)の雄弁と言えばいいのか、長身をソファーに沈め、言葉を選びながらぽつぽつと話してくれる。
「三河島に住む在日韓国人は、済州島にルーツを持つ人が多いんです。中でも“高内里(コネリ)”という村の出身者は突出しています。呉斗萬という朝鮮半島の人物がきっかけになっているようです。この人が高内里の出身で、今から110年ほど前に(現在の)荒川区にやってきた」(鄭さん)
当時の朝鮮半島は日本の統治下にあった。呉さんは渡日した後に、軍需関連の仕事に携わったことで日本の当局に顔が利くようになり、渡航証明書の発行などについてもスムーズに手続きできる身となった。そして故郷である高内里の親族や友人たちを多く呼び寄せた。


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