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2021年2月1日、ミャンマーで国軍によるクーデターが発生した。10年ほど続いた民主化だったが、当時の与党・国民民主連盟(NLD)の実質的な指導者で日本でも著名な民主活動家のアウンサンスーチーさんも拘束。民主化という時計は逆戻りを始めてしまった。
そのような中、政権と国軍の間での対話を模索するために奔走したのが、日本の駐ミャンマー大使だった丸山市郎氏だ。大使館の前でクーデターに反対するヤンゴン市民に対し、流暢なミャンマー語で日本政府の立場などを堂々と伝えていた姿は、まだ記憶に新しい。
丸山氏は1978年に外務省へ入省。ミャンマー専門官として79年に研修生として初めてミャンマーに滞在し、81年以降、5回通算27年間にわたり駐在。18年3月から24年9月まで駐ミャンマー特命全権大使を務めた。
丸山氏は26年6月、自身の外交官人生を振り返る1冊『3つのミャンマーと日本―スー・チー氏と軍事政権に向き合った外交官の50年』(時事通信社)を出版した。ミャンマーと深く関わり続けてきた丸山氏に、約50年に及ぶこの国との歩みと、その思いを聞いた。
妻の一言でビルマ専門官に
――出版後、改めてご自身とミャンマーとの歩みを振り返って、どのようなことをお感じになりましたか。
1978年に専門職職員として外務省に入省し、人事課から、それまでまったく関わりのなかったビルマ(ミャンマー)専門官になるよう告げられたときは、正直戸惑いました。
そのとき、家内が「やってみたら」と背中を押してくれました。その一言で、私はビルマ専門官になる決心をしました。
79年、外務省の研修生として初めてミャンマーを訪れました。当時はネ・ウィン政権(74~81年)後期で、生活物資は極めて不足しており、市場ではタイ経由で持ち込まれたコーラやビールなどの密輸品を探して買うような時代でした。
それから47年が経ちましたが、2021年以降の輸入規制による物資不足などを目の当たりにすると、当時と同じ状況が繰り返されているような強いデジャヴを感じます。
ネ・ウィン(1910~2002年):ミャンマーの軍人・政治家。日本名は高杉晋(たかすぎ・しん)。当時のビルマ独立の功労者の1人。独立後は軍総司令官や大統領、ビルマ社会主義計画党(BSPP)議長を務め「独裁者」として非難された。
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