家内は15年にミャンマーで亡くなりましたが、私がミャンマーに赴任するときは、いつも一緒でした。
家内がミャンマーの方々と親しく交流し、温かく迎えられる様子を目の当たりにするたびに、「日本人とミャンマー人は本当に親しい関係にある」と実感しました。
そうした経験を重ねる中で、「ミャンマーの国民に寄り添う」という思いが、私の中で自然に育まれていったのだと思います。
そして本を書き終えた今、振り返ってみると、私とミャンマーとの長い関わりの原点には、あのとき背中を押してくれた家内の存在があり、「ミャンマーの国民に寄り添う」という思いの原点もまた、家内と共に過ごしたミャンマーでの日々にあったのだと、改めて感じています。
日本だけに知らされた「アウンサンスーチー自宅軟禁解除」
――外交官人生の中で、最も印象に残っている出来事を教えてください。
95年7月10日のことです。ミャンマー軍情報局ナンバー2だったチョウ・ウィン大佐から、89年7月以来、自宅軟禁されていたアウンサンスーチーさんの自宅軟禁解除について事前に知らせを受けました。
この情報を事前に知らされていた国は、日本だけでした。
当時、私は2度目のミャンマー赴任中でした。あの知らせを受けた瞬間のことは、今でも忘れられません。軍がこの決断をしたことに驚くとともに、「ミャンマーは良い方向へ動き始めるのではないか」と期待しました。
しかし、スーチーさんをめぐる問題は今でも解決されることなく、現在のミャンマー政治にも大きな影を落とし続けています。今回、執筆しながらもそのことを何度も思い返しました。
――アウンサンスーチー氏は、どのような指導者でしたか。
とにかく信念が一貫していて、決してぶれない指導者という印象でした。
日本から国会議員や閣僚がミャンマーを訪れ、スーチーさんと面談する際、彼女は一切メモを取ることなく、日本側の発言をすべて記憶し、それに対して的確に返答したり関係者へ指示を出したりしていました。その卓越した記憶力と集中力は、とても印象に残っています。
また、16年と18年にスーチーさんが来日された際には、私も同行しました。東京駅の新幹線ホームでは、多くの一般の日本人が「スーチーさん!」と名前を呼びながら写真を撮っていたのです。
その時、警護に当たっていた日本のSPが私に、「これまで多くの外国要人を警護してきましたが、これほど一般の日本人が名前を呼びながら写真を撮る外国の要人は、ほとんど見たことがありません」と語ったことが印象的でした。


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