「明智の城は豪壮華麗で、信長の安土城に次ぐ名城だった」
滋賀県大津市にかつてあった坂本城は、宣教師ルイス・フロイスにそう評されている。明智光秀が琵琶湖畔に築いたこの城は、大天守・小天守を持つ壮麗な水城だったという。
京都の公卿である吉田兼見が残した日記『兼見卿記』には、坂本城が信長の安土城にさきだって「天主を持つ城」であったことが記されている。
しかし、そんな名城だったにもかかわらず、今は琵琶湖の水位が大きく下がったときに、湖底から石垣がわずかに姿を現すのみ……というなんともレアな城になってしまった。何があったのだろうか。
大きな役割があった「坂本城」
元亀2(1571)年、光秀は織田信長から、坂本城を築くよう命じられた。信長は比叡山焼き討ちの直後、比叡山延暦寺を監視しながら、琵琶湖の制海権を掌握しようとしたようだ。
坂本城を築城して、安土城や長浜城とともに琵琶湖ネットワークを形成することで、湖上輸送された物資を京によりスムーズに運ぶことができる。
そんな信長のビジョンから、坂本城の城内には舟入があり、輸送船が直接乗り入れる構造だったという。信長政権下でこれほどの城を任されることになった光秀は、まさに出世頭だったといえよう。
坂本城を光秀はどんなふうに活用したのか。その一端を伝えてくれるのが、天正3(1575)年に坂本城を訪れた薩摩の武将・島津家久の日記だ。

