だが、光秀の首が、どのように扱われたかを調べると、意外な事実が浮き彫りになる。光秀の首が埋められた、と言われる「首塚」は、全部で3つある。
一つ目は、京都市東山区梅宮町の小路脇にあり、光秀の家臣、もしくは、光秀の子孫が埋葬したと言われている。その塚は「明智明神」と呼ばれ、首から上の病気を治すと信じられているという。
二つ目は、京都府亀岡市の谷性寺の境内にある。谷性寺は光秀が手厚く庇護していたというお寺で、やはり光秀の家臣によって埋葬されたと伝えられている。
三つ目が、京都府宮津市の盛林寺の境内に築かれた首塚であり、光秀の娘にあたるガラシャのもとへ運ばれた首が埋葬された、と伝えられている。
もちろん、実際には光秀の首は一つしかないので、少なくとも2つは実際に首が埋められているわけではなく、言い伝えということになる。
それでも、いずれも光秀にとって近しい人によって埋葬され、首塚が築かれていることには変わりない。生前、光秀がいかに周囲の人に親しまれていたかがわかるだろう。
「天魔」と恐れられた信長を討った、光秀による一か八かの大反逆。当時の人々にとって、光秀は、「ざんねん」どころか、むしろ英雄だったのかもしれない。
坂本城が「幻の城」とされるワケ
光秀の「本能寺の変」によって信長が討たれたことで、坂本城の運命もまた一転する。
光秀が「山崎の戦い」で秀吉に敗れて落命すると、信頼した家老の一人で、娘婿でもあった明智秀満は光秀の妻子を刺し殺して、坂本城に火を放って自害。天守はここで焼け落ちた。その後、天正14(1586)年に秀吉の命で大津城が築かれると、坂本城の石材はそちらに転用され、廃城となった。
そんな坂本城の遺構は、わずかに石垣の底の石が琵琶湖に沈んでいる。数十年に一度、雨が少なく琵琶湖の水位が下がったときだけその姿を現すため、「幻の城」と呼ばれている。
坂本城を絶賛したフロイスも、さぞ残念に思っていることだろう。

