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キャリア・教育 #秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像

明智光秀が築いた"幻の名城"…豪華絢爛だった《坂本城》が辿った運命と「光秀の首」にまつわるナゾ

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坂本城の銘板石(写真: tecplanning / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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家久は光秀に城内を案内され、城の備蓄や設備の充実ぶりに目を見張ったと記している。さらに光秀は家久を座敷船に乗せて琵琶湖へと繰り出し、酒宴を催した。

天下第二の城に招かれ、豪華な船上で宴を楽しむ——。坂本城は軍事拠点であるだけでなく、光秀が客人を迎えてもてなす「おもてなしの城」でもあった。光秀が客人の心をつかむ細やかな気配りの持ち主だったことも、この記録からはうかがえる。

弓矢で防戦しながら人生を閉じた信長

傍からみれば、順風満帆に見えた光秀だったが、胸中には言葉にできない思いを鬱積させていたようだ。光秀は日本史上、最も有名なクーデターとして語られる「本能寺の変」へと踏み切ることになる。

中国地方への遠征を命じられていた光秀は、信長の意に反して自軍を京都の本能寺へと翻し、かつての主君を自害へと追い込んだ。

信長の最期はどのようなものだったのか。『信長公記』によると、宿としていた本能寺の周囲を取り囲まれて鉄砲を撃ち込まれると、信長は「さては謀反だな、誰のしわざか」と問いかけた。

そばにいた森成利(蘭丸)が「明智の軍勢と見受けます」と回答。それを聞いた信長が「是非に及ばず(やむをえぬ)」とつぶやいたことはよく知られている。そこには「(あの光秀が裏切ったならば)仕方がない」という、光秀の優秀さを知る信長だからこその、諦観があったのではないだろうか。

それでも信長は最期まで戦い、戦場の武士としてその生涯を終えようとしていた。『信長公記』では、信長が命の限り戦う姿を克明に描いている。

「信長は、初めは弓をとり、二つ三つと取り替えて弓矢で防戦したが、どの弓も時がたつと弦が切れた。その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を受けて退いた」

いよいよ追い詰められると、「女たちはもうよい、急いで脱出せよ」と付き添う女房たちに告げてから、切腹したと伝えられている。

一方、主君を裏切り、クーデターを成功させたかに見えた光秀だったが、抗戦中だった毛利氏ととんでもないスピードで和睦し、中国地方から戻ってきた羽柴秀吉との戦に敗北。その天下はたった13日で終わってしまった。俗に言う「三日天下」だ。

光秀は最期、百姓の竹槍によって殺されたとも言われている。戦国最大の英雄、信長の劇的な死と比べて、光秀の死はざんねんとしか言いようがない。

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