有料会員登録 東洋経済オンラインとは
キャリア・教育 #秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像

打倒秀吉!で家康とせっかく組んだのに…信長の次男《織田信雄》が秀吉と和睦した"なるほどな理由"

6分で読める
豊臣秀吉(写真:akg-images/アフロ)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)

INDEX

人生には誰しもが「ここぞ」というときがある。織田信長の次男・織田信雄にとっては「本能寺の変」のあとが、まさにそのときだった。

なにしろ、父の信長、そして兄である信忠まで命を落とすことになったのだ。裏切り者の明智光秀をいち早く討って、誰よりも早く仇討ちをせねばならなかった。

だが、一報を受けた信雄は、伊勢松ヶ島の居城から軍勢を率いて出陣はしたが、光秀と戦うことなく撤退している。伊賀を越して近江甲賀郡土山まで出たものの、本国・伊賀で乱に乗じた国人衆が不穏な動きを見せていたため、それ以上、西に進むことができなかったのである。

信長が信雄に激怒したもっともなワケ

もっとも、そもそも十分な兵を集めることができなかったのが実情だった。伊勢の兵の大半は、ちょうど四国攻めの準備を進めていた弟・信孝の軍にすでに動員されており、信雄の手元には十分な兵力が残されていなかったのだ。

それに加えて、信雄自身に人を集めるだけの求心力がなかったことも大きい。端的にいえば、周囲からあまり信用されておらず、人望がなかったのである。

それも無理はない。天正7(1579)年9月、信雄は父の信長に無断で1万ほどの軍勢を率いて、隣国の伊賀に攻め込んだ。

この時点で問題だが、山に囲まれた地で攻めあぐね、伊賀の郷士たちに散々てこずったあげくに敗戦。撤退を余儀なくされる中、追撃を受けて、織田氏の家臣・柘植保重(つげ やすしげ)が討ち死にしてしまう。

2/4 PAGES
3/4 PAGES
4/4 PAGES

こちらの記事もおすすめ

あなたにおすすめ

キャリア・教育

人気記事 HOT

※過去1ヶ月以内に配信した記事の閲覧数