人生には誰しもが「ここぞ」というときがある。織田信長の次男・織田信雄にとっては「本能寺の変」のあとが、まさにそのときだった。
なにしろ、父の信長、そして兄である信忠まで命を落とすことになったのだ。裏切り者の明智光秀をいち早く討って、誰よりも早く仇討ちをせねばならなかった。
だが、一報を受けた信雄は、伊勢松ヶ島の居城から軍勢を率いて出陣はしたが、光秀と戦うことなく撤退している。伊賀を越して近江甲賀郡土山まで出たものの、本国・伊賀で乱に乗じた国人衆が不穏な動きを見せていたため、それ以上、西に進むことができなかったのである。
信長が信雄に激怒したもっともなワケ
もっとも、そもそも十分な兵を集めることができなかったのが実情だった。伊勢の兵の大半は、ちょうど四国攻めの準備を進めていた弟・信孝の軍にすでに動員されており、信雄の手元には十分な兵力が残されていなかったのだ。
それに加えて、信雄自身に人を集めるだけの求心力がなかったことも大きい。端的にいえば、周囲からあまり信用されておらず、人望がなかったのである。
それも無理はない。天正7(1579)年9月、信雄は父の信長に無断で1万ほどの軍勢を率いて、隣国の伊賀に攻め込んだ。
この時点で問題だが、山に囲まれた地で攻めあぐね、伊賀の郷士たちに散々てこずったあげくに敗戦。撤退を余儀なくされる中、追撃を受けて、織田氏の家臣・柘植保重(つげ やすしげ)が討ち死にしてしまう。

