天正10(1582)年6月27日、尾張国清洲城で清須会議が開かれる。「本能寺の変」によって織田信長が明智光秀に討たれてしまい、嫡男の信忠も自刃に追い込まれたため、織田家の方針を定める必要があった。
主導権を握ったのは、「山崎の戦い」で明智光秀を討伐した羽柴秀吉である。そのほか重臣の柴田勝家と丹羽長秀も会議に出席。本来ならば、さらに滝川一益が出席するはずだった。
大事な会議に出られなかった滝川一益
なにしろ、滝川一益といえば、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀らと並び「織田家四天王」とされるほどの重臣だ。
一益が信長にスカウトされたのは、30歳のとき。近江国甲賀郡の地侍の家に生まれた一益が、鉄砲の産地である堺にわたって射撃技術を磨いていたところ、信長に声をかけられたと伝わる。
信長の見る目は確かだったらしい。武田勝頼率いる武田軍との「長篠・設楽ヶ原の戦い」では、滝川が鉄砲隊の指揮をとり「進むも滝川、引くも滝川」と高く評価された。
一益はその後の甲斐武田攻めにおいても、素早い侵攻で武田軍を圧倒。天目山で勝頼を自害に追い込み、武田家滅亡に尽力した。
その功績を高く評価した信長から、上野国、信濃2郡を与えられた一益。関東地方の取次ぎ役に任命されることとなる。
だが、「本能寺の変」で信長が討たれると、関東を任されたことが裏目に出る。秀吉がすぐに光秀の討伐に動くなか、一益はというと、上野全域を取り戻すべく侵攻してきた北条軍との「神流川の戦い」に追われることになり、その挙句に惨敗を喫する。


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