ここで動いたのが秀吉だ。表向きは勝家の意見に賛意を示しつつ、こんな別案を提示したという。
「筋を通すのであれば、信忠様の嫡男・三法師様を跡目に据えるべきではないか」
勝家は内心穏やかではなかったが、顔には出さなかったという。
すると、しばらくの沈黙のあと、丹羽長秀が口を開いて「信忠様には三法師様という嫡男がおられるのだから、織田家はその方に継がせるべきだ」と、秀吉の案に賛同。秀吉は間髪入れずこれに同調したという。
その後、秀吉が席を外すと、残された諸将は話し合いの末、三法師を家督とすることで決まる……と、そんな展開となっている。
抜け目がなかった秀吉の行動
『川角太閤記』によると、会議が一段落して他の重臣たちが退出していく中、秀吉だけが席を立たずに、その場に残った。そして奥の部屋にいる三法師を、乳母ともども自分のそばへ連れてこさせた。しばらくして、秀吉は幼い三法師を自らの腕に抱いた状態で、皆の前に姿を現したという。
織田家の後継者と定まった幼君をすぐさま、自分の腕の中に抱いてしまうという秀吉の行動について『川角太閤記』はこう評している。
「筑前守の機転の速さといったら、実に恐ろしいものだ」
(筑前守殿御きてんこそおそろしけれ)
秀吉の政治的な立ち回りの巧みさを、同時代の空気を伝える筆致で描いた場面と言えるだろう。
この『川角太閤記』の記述がいろいろと波及した結果、「清須会議では、信雄と信孝が後継の座を争い、そこに秀吉が三法師を担いで割って入った」という、三つ巴の構図で語られたりするようになったようだ。
しかし、『川角太閤記』は江戸時代初期に成立した書物によるもの。同時代の一次史料による裏づけはなく、近年は清須会議における劇的な展開への見直しも進んでいる。
戦国時代の研究者の柴裕之氏は、庶流である信雄や信孝はそもそも後継者になれるはずもなく、三法師が後継者になることは既定路線だったと論じている。ただ、三法師が幼いがゆえに、「誰が幼い当主の名代として実権を握るか」で、議論が行われたようだ。


※ログイン後、コメント入力が可能です。