織田家の重臣が集まった清須会議について、一益は「間に合わなかった」とこれまで言われてきたが、近年の研究では、そもそも呼ばれていなかったという説もある。
信長から任された領地を早々と失ったことを考えると、たとえ会議に出たとしても、一益の発言権は皆無だっただろう。
表舞台に躍り出た池田恒興の素性
そんな一益に代わって、会議に出ることになったのが、池田恒興である。
恒興の母は信長の乳母を務めており、恒興自身も信長と同じ乳で育った「乳兄弟」という間柄にあった。この特別な結びつきから、恒興は10歳の頃から信長の小姓として仕え始め、以後、織田家中枢の近くで育っていくことになる。
恒興については、「桶狭間の戦いで恒興が活躍した」と語られることがあるが、この逸話は、後世に編まれた池田家側の記録に基づくもの。同時代性の高い『信長公記』では裏付けが取れていない。
『信長公記』によると、恒興は元亀元(1570)年の「姉川の戦い」に従軍した後、尾張国犬山城主に任じられて、1万貫を与えられた。
以後も、元亀2(1571)年の比叡山焼き討ちや、天正2(1574)年の長島一向一揆討伐といった信長の重要な軍事行動に、従軍を重ねている。
そんな恒興にとって最大の転機となったのが、天正6(1578)年から始まった、荒木村重への対応である。信長への反旗を翻した村重を追い、有岡城、そして尼崎・花隈の諸城を陥落させる働きを見せた。
この功によって摂津方面に所領を得た恒興。信長政権下でも、押しも押されもせぬ重臣の一人となっていく。信長が光秀に討たれたのち、急遽、清須会議に出席が決まると、その後の政局においても、存在感を発揮することとなった。
清須会議の目的は、信長とその嫡男の信忠が亡くなったことを受けて、織田家の後継者と遺領の再配分を決めることだ。
『川角太閤記』の記述によると、諸将が集うなか、まず口火を切ったのは柴田勝家で、「信長様の後継者たる天下人を選びたい」と提案。しかし、誰も名乗りを上げようとしないため、しびれを切らした勝家が、自ら信長の3男である信孝を推挙したという。


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