このときに信長はというと、京都二条の新邸で摂家・清華家の公家衆と細川昭元が蹴鞠の会を催したため、見物に出かけていた。
信長自身も間もなく摂津・伊丹の荒木村重を攻め込もうとしていたところであり、その出陣を前に、京都から伊丹方面へと出陣。山崎に泊まると、信雄に「勝手な合戦をするのはけしからぬ」という書状を書き送っている。文面は、次のとおりだ。
「このたび伊賀の国境で負け戦をしたそうだが、誠に天の道理にそむく恐ろしいことで、天罰ともいえる」
信長は信雄が伊賀に攻め込んだのは、「隣国の伊賀と一戦交えたことにすれば、遠方への出兵を免れられる」という考えからに違いないと断罪。具体的には摂津への遠征を嫌がったがゆえだろうとして、こう続けている。
「三郎左衛門その他を討ち死にさせてしまったのは言語道断、けしからぬことである。親子の縁を切るようなことにもなると思うがよい」
その後、信長に挽回の機会を与えられて、伊賀を制圧することに成功するも、周囲から見ても、信雄にはどうも頼りないところがあったらしい。織田家の家臣たちはことあるごとに、こんなふうに言って、信雄を見下していた。
「三介殿(信雄のこと)のなさることだから……」
そんな信雄だから、「本能寺の変」のあと、光秀を討てなかったことも、ある意味、周囲からすれば「でしょうね」という感想でしかなかったかもしれない。
信雄とは対照的に、いち早く京都にかけつけて光秀を討った豊臣秀吉が、織田家において存在感を発揮。信長の後継者として、のし上がっていくことになる。
「小牧・長久手の戦い」での信雄の行動
だが、信雄はただのダメ息子ではなかった。秀吉とライバルの家康の間に入って、両者の調整役を行いながら、織田家を巧みに存続させることに成功している。その真骨頂が、天正12年(1584)、秀吉と家康が直接対決した「小牧・長久手の戦い」である。
このままでは、秀吉が天下人として君臨することになるのではないか――。
本能寺の変のあと、信雄は当初、秀吉と手を組んでいた。しかし、柴田勝家を滅ぼした秀吉が大坂城の築城を始めると、「自分の身を脅かすのではないか」と脅威を感じたようだ。

