天正12(1584)年3月、信雄は秀吉方についていた家老3人を処刑。これに激怒した秀吉が信雄討伐の兵を挙げたことで、信雄は徳川家康を頼り、両者は手を組んで秀吉に対抗することになる。それが「小牧・長久手の戦い」である。
この戦いにおいて家康軍は、4月9日の長久手の戦いで秀吉軍の池田恒興・元助父子や森長可ら敵の大将らを討ち取ることに成功。秀吉を圧倒することになる。
それにもかかわらず、途中でビビった信雄が秀吉と勝手に和解。家康は振り上げたこぶしをおろすしかなかった……。そんなふうに語られることがあるが、実際はやや違った。
家康も内心ほっとしていた?
確かに、家康は序盤で秀吉軍を圧倒しているが、それは4月のことで、その後、戦は11月まで続いている。その間は一進一退の攻防が続き、徐々に兵力に勝る秀吉軍が、有利になりつつあった。
そこでいったんは和睦の話も出るが、決裂。秀吉軍が信雄の本拠地である伊勢国から南伊勢へと猛烈な攻勢を開始した。秀吉軍の優勢が揺るぎない状態をみて、11月、信雄は秀吉との単独和睦を決意することとなった。
つまり、「小牧・長久手の戦いで家康は勝っていたのに、信雄が和解したから……」というのはよくある誤解で、あくまでも家康は序盤戦を有利に進めていたにすぎない。戦況が日に日に悪くなるなかで、むしろ徹底的にやり込められないタイミングで、信雄は和睦に動いたともいえよう。
戦後、家康は秀吉の求めに応じて、次男の於義伊(結城秀康)を秀吉のもとに送っている。もし、「小牧・長久手の戦い」で秀吉に勝っていたならば、こんな要求を呑むこともないはずだ。
やはり実質的には「家康の負け」に等しい「引き分け」だったとみるのが自然だろう。信雄が和解をまとめてくれたことに、家康も内心ではほっとしていたのではないだろうか。

