東洋経済オンラインとは
ライフ #街とキャンパス

「教室が混みすぎて雀荘に避難」「図書館は朝7時から並んで席取り」…学生から不評だった「中大・駿河台キャンパス」の青春

8分で読める
中大の「駿河台キャンパス」
中大の「駿河台キャンパス」。以前は「駿河台記念館」があり、学員(卒業生)の交流の場として機能していた(写真:筆者撮影)
  • 松本 史 フリーランス編集・ライター
2/5 PAGES
3/5 PAGES
駿河台キャンパスの敷地には緑に囲まれたカウンターが設置されている。筆者が訪れた日は日曜日だったが、このカウンターで勉強をしている人もいた(写真:筆者撮影)

定員を大幅に超過していた理由とは?

定員をはるかに超える学生の受け入れ、度重なる学費値上げ、さらに値上げしても改善されない教育環境と、多くの中大生が大学に対して不満を持っていた。

しかし実は、定員を大幅に超過していたのは中大だけではなく、当時の私立大学の多くが同じ状況だったという。なぜ、そんなことが起こっていたのか?

一部のエリートだけではなく幅広い層が進学する大学の大衆化は、一般的には60年代から始まったといわれている。しかし、『中央大学140年のあゆみ』では、全国から学生が集まっていた東京においては、「(前略)団塊の世代といわれる第一次ベビーブーマーが大学進学にさしかかる以前の1950年代からすでに大学の大衆化が始まっていたといえるだろう。」と分析している。つまり、東京の大学へ進学を希望する絶対数が増えていたのだ。

そのうえで、当時の私立大学は授業料収入への依存度が極めて高かった。国からの補助金が本格化するのは70年以降からで、それ以前は学生数=収入だった。私立大学にとって、教育環境の悪化と引き換えにしても、多くの学生を受け入れることが生存戦略だったのだ。

当時、人が多すぎる環境に嫌気が差し、大学を抜け出して雀荘や喫茶店に入り浸ったり、朝から晩まで名画座で映画を見ている学生も少なくなかった。大学が多かった駿河台は、そんなサボり学生に優しい街で「(前略)中大周辺には雀荘が10軒ほどあり(後略)」、「喫茶店も大学から五分程度で行けるところに106軒もあった。」そうだ(『中央大学140年のあゆみ』)。

しかし、そんなサボり学生に優しい駿河台の街は、やがて時代のうねりとともに、激しい闘争の舞台へと変化していく。

4/5 PAGES
5/5 PAGES

こちらの記事もおすすめ

あなたにおすすめ

ライフ

人気記事 HOT

※過去1週間以内の記事が対象