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「教室が混みすぎて雀荘に避難」「図書館は朝7時から並んで席取り」…学生から不評だった「中大・駿河台キャンパス」の青春

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中大の「駿河台キャンパス」
中大の「駿河台キャンパス」。以前は「駿河台記念館」があり、学員(卒業生)の交流の場として機能していた(写真:筆者撮影)
  • 松本 史 フリーランス編集・ライター
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駿河台キャンパス19階にはダイニングレストランが入っている。中大クラフトコーラとさつまいものチーズテリーヌのセットで1100円(写真:筆者撮影)

学生運動と劣悪な教育環境への不満が結びつく

60年代は安保闘争など、社会運動が盛り上がった時代で、学生たちもその中心的な担い手として学生運動を展開した。60年代半ばからは政治闘争に加え、大学の管理運営など、学内問題で紛争が起こるようになっていく。

中大でも65年12月、当時、建設中だった学生会館の自治権をめぐって駿河台校舎の封鎖・ストライキが起こった。これが、中大紛争の始まりだ。

なかでも68年の学費値上げ問題は、中大紛争で最大の衝突となった。大学側の発表した50%を超える学費値上げの白紙撤回を要求し、バリケードを設置して無期限の全学ストライキに突入。卒業試験の延期など混乱が起こる中、最終的に学生側の要求が通り、白紙撤回となった。騒動の責任を取って理事長や学長、全学部長などが辞職し、大学は一時機能停止の状態になったという。

同年6月には、駿河台一帯で「神田カルチェ・ラタン闘争」が起きる。カルチェ・ラタンとは、同年5月に学生と市民が一体となった大規模な反政府運動が起こったパリの学生街だ。社会主義学生同盟の呼びかけに応じた中大、明大、日大などの学生が、アジア・太平洋閣僚会議の開催反対を掲げ、中大の中庭で決起した。「ここを日本のカルチェ・ラタンに」と呼びかけ、明大通りにバリケードを築いて解放区を作り、機動隊に投石を繰り返して激しい騒乱となった。

これ以降、駿河台ではたびたびバリケードで解放区を作る闘争が起こるようになる。

YouTubeにアップされている映像には、69年1月の東大闘争に呼応した駿河台の闘争で、ヘルメットを被りゲバ棒を持って闊歩し、剥がした歩道の敷石を叩きつけて投石を作り、機動隊と正面衝突して揉み合う学生たちが映っている。社会変革への思い、暴力的衝動、高揚感……、あの頃の駿河台はそんな学生たちの熱気に包まれていた。

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