脳だけを「賢く」しようとする教育は、生物としての発達に反する

――明和先生が専門とされている比較認知発達科学とは、どのような学問でしょうか。

簡単に言うと、ヒトに特有の脳や心がいつ、どのような環境のもとで発達するのかを解き明かそうとする学問です。ヒトは進化の過程で高い知性や社会性を獲得してきた生物ですが、そうした「人間らしさ」がいつ、どのように、なぜ生まれてくるのかを理解したいと思っています。

まずは、ヒトをチンパンジーなどヒト以外の霊長類と比較することで人間らしさを明らかにしようとしてきました。ヒトという生物がどのような脳や心の特性を持っているかは、ヒトだけを研究しても気づかないことが多いです。また、私たちは、ヒトは特別な存在だと無意識にとらえてしまう傾向もあります。

現代社会が直面しているさまざまな社会課題の解決に向けては、そうした問題が生じる背景、つまり、ヒトという存在の客観的、科学的理解が不可欠だと考えています。

こうした科学的知見は、ヒトの多様な育ちの理解も深めてくれます。子どもたちの脳や心の多様性がなぜ生まれるのかを、環境要因を含めて科学的に理解する。それにより、発達障害などの非定型な発達をとげる子とそうでない子、といった単純な二分法的見方を解消し、それぞれの子に応じた発達支援や教育をエビデンスに基づいて提案することができます。

日本の教育や子育ての現場では「〜すべき」「みんなと同じでなければ」という画一的な空気感が世界的に見ても過度であると感じます。最新の科学的知見をわかりやすく示すことで、ヒトの育ちや教育に潜む固定観念を少しでも変えていけたらと思っています。

――ヒトの脳と心はどのように育っていくのでしょうか。また近年は、ヒトの知能をはるかに超えるAIの開発などもされていますね。

赤ちゃんの脳はまだ未熟ですが、身体経験で生じる感覚を積み重ねることで、個々の脳はしだいに発達していきます。技術が進み、脳だけを「賢く」発達させる子育てや教育も提案される可能性がありますが、それは生物としての発達に反しています。

脳の情報処理演算が科学的に解き明かされたからといって、なぜ脳や心が発達していくのかを理解することはできません。そもそも、ヒトの脳のはたらきと人工知能を単純に比較することは意味がありません。

明和政子(みょうわ・まさこ)
京都大学 大学院教育学研究科 教授
京都大学教育学部卒業、同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。京都大学霊長類研究所研究員、同大学教育学研究科准教授などを経て現職。専門は認知科学、発達神経科学。近年は身体と脳の相互関係に着目し、脳や心の発達における食生活習慣の影響を科学的に明らかにしようとしている。主著に『マスク社会が危ない―子どもの発達に「毎日マスク」はどう影響するか?』(宝島社新書)、『ヒトの発達の謎を解く』(ちくま新書)など多数
(写真:本人提供)

脳と心は切り離して理解することはできません。ここでいう心とは、人工知能が得意とする知能の側面だけではありません。夕焼けを見ていたら、その美しさに感動して涙があふれてくる、緊張してドキドキしたり、お腹が痛く感じたりする。

そうした身体反応を伴う感情を含むものです。脳からの信号が身体に影響することもあるし、身体反応が脳に信号を送ることもある。脳と心は、複雑な相互関係をもっています。

AIは既存の知識に基づく知能の側面ではヒトをはるかに超えていますが、感動する・びっくりする・人と喜び合うなどといった人間らしさの根幹にあたる心の側面は、身体を持たないAIが自律的に感じることは困難です。身体―脳の相互作用によって生じる感情や感性を豊かに経験することこそが、人間らしい脳と心の発達には不可欠です。

――「人間らしさ」の象徴として社会性があると思います。ヒトの社会性はどのように育っていくのですか。

社会性をもう少し具体的に説明すると、相手の立場を場面に応じて柔軟にイメージしたり、推論したりしながら、適切な人間関係を築いていくことになるでしょう。ヒトにもっとも近縁なチンパンジーでも、こうした高いレベルの社会性は持っていません。ヒト特有の社会性の脳内の中枢は、前頭葉、とくに「前頭前野」とよばれる場所のはたらきが大きく影響します。

環境の影響を受けやすい脳の「感受性期」は2回ある

――前頭前野はどのように発達していくのでしょうか。

前頭前野の発達は25歳ごろまで続きます。長い期間をかけてヒトは前頭前野を発達させていくのですが、この期間、環境影響をとくに受けやすい「感受性期」と呼ばれる時期が2回あります。1度目は4歳ごろの幼児期後期、2度目は思春期に当たる時期で、環境要因が前頭前野の発達に大きく影響すると考えられています。

ヒトの人生において、脳神経細胞の数がピークを迎えるのは、妊娠期から生後数カ月と言われています。生後8カ月ごろから、視覚野や聴覚野といった比較的早く成熟する脳部位では、神経細胞同士をつなぐネットワーク、シナプスの「刈り込み」が始まります。

多くの神経細胞が過剰にネットワークを形成していくのですが、それは同時に、過剰なエネルギーを必要とします。そこで、生まれ落ちた環境での情報処理によく使われるネットワークだけが生き残り、あまり使われないネットワークは消えていきます。これを「刈り込み」現象と言います。こうした変化が、脳の感受性期に起こっているのです。

虐待など、厳しい環境で育たざるをえなかった子どもは、大人になってから、そうではない環境で育った人とは異なる脳の構造になりやすいことがわかっています。不適切な環境で生き延びるために必要な脳内ネットワークが異質になるからです。それは、生涯にわたる脳と心の健康に大きく影響します。

前頭前野のシナプスの刈り込みは4歳ごろに始まります。さらに思春期に急激に進み、25歳ごろまで継続されます。とくに、幼児期、思春期の環境保障は、人生の心身の幸福を左右するきわめて重要なものです。

心地よい記憶や身体感覚を積み重ねることで、心が育つ

――幼児期に、大人はどう関わるのがいいのでしょうか。

「適切なアタッチメントの形成」が何よりも大事だと思います。例えば子どもと触れ合う、抱きしめるといった身体接触は、親と子双方に「オキシトシン」を分泌させます。オキシトシンは「愛情ホルモン」とも呼ばれていて、社会性に関する脳や心の発達に直接的に影響します。

触れ合いによる心地よい記憶や身体感覚を日々積み重ねることで、心身に不安を感じたときに必要となる誰かとのつながり(アタッチメント)が形成され、脳や心が健やかに育つ土台がつくられます。そもそもヒトは哺乳類動物の一種なのですから、アタッチメント形成が生存に直結するのは当たり前ですね。

アタッチメント対象は、母親である必要はありません。母性や父性という分け方は、最新の科学の知見では支持されていません。性差を問わず、子育て経験を積み重ねていくことで、ヒトは子育てに適応的にはたらく脳内ネットワーク、「親性脳」を発達させていくことが明らかとなっています。実は親も、子どもとの触れあいによって脳が育っていくんですよ。

――「母親」「父親」のレッテルに縛られる必要はないということですね。

さらにいうと、アタッチメント対象は親、血縁関係にある者でなくてもいいんです。近所に住む、いつもお世話をしてくれる誰かでもいい。そもそもヒトは、ひと昔前までは大家族であり、地域コミュニティで「共同で」子育てを行っていました。

現代は、核家族が大半となり、親の子育ての負担が大きくなっていますが、これは生物としてはありえない子育て環境です。そもそも、ヒトという生物は共同養育という形態をとりながら進化してきたと考えられています。出産するのは女性ですが、育てる段階では複数のコミュニティメンバーが協力して子育てを担ってきたと言われています。

生物としてのヒトの育ちに立ち返ると、現代社会では幼稚園・保育園・こども園などが「現代版・共同養育」の場としてその役割が大きく期待されます。ヒトを育てることは、その子が生涯持つことになる脳をいかに育むかに直結します。その責任の重さを社会が広く理解し、それに対して支払われるべき対価についても改めて考える必要があります。保育という営みは、誰にでもできる「サービス」であってはならないのです。

子育ては、誰かを頼らないとできない営み

――思春期において、前頭前野の育ちに大切なことは何でしょうか。

これまでに経験したことのない多様な人々に出会い、触れ合い、感情を沸きたたせる身体経験をすることかと思います。

現代はSNSなどオンライン上でのつながりが強まり、「好きな人とだけつながっている、均質で心地よい空間」を選択できる時代です。思春期は、脳発達における重要な時期―感受性期です。思春期をこうした偏った環境で過ごすことで高まるリスクは、脳科学から予測できます。オンライン空間で過ごすことが日常となった今こそ、外に目を向け、自分の世界を超えた他者と出会う、身体で経験する挑戦をあえてしてほしいのです。

例えば、シニアの方の話を聞いたり、赤ちゃんと遊んでみたり、海外に出て現地の人と話してみたり――。自分と全く違う文化で育ってきた人や言葉が通じない相手と接するときには、その人がどう考えているのかをあえて意識的に思考する必要があります。そうした認知的負荷がかかる経験により、前頭前野が鍛えられ、育っていくはずです。

――最後に、子どもと向き合う立場にある親や教育に関わる方へ向けてメッセージをいただけますか。

ヒトを育てるという経験は、実は自分の脳と心を育てることにつながります。子どもは、大人から見ると自分とは大きく異なる存在です。思い通りにならないことが多く大変ですが、それを乗り越えた先には、自分自身の成長、達成感や喜びが得られるはずです。

とはいえ、すべてをひとりで背負い込む必要はないこともお伝えしたいです。そもそもヒトは共同養育により進化してきた生物であることを忘れないでいただきたい。子育ては、誰かを頼らないとできない営みなのです。孤独になりがちな現代社会で必要なのは、子どもだけでなく育てる側も安心できる “コミュニティ”です。コミュニティの仲間と子育ての苦労と感動を共有しながら、自分自身の成長にも気づき、褒めてあげてほしいです。

(文:藤堂真衣、注記のない写真:zon/PIXTA)

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