名門生徒の暴言と不登校の背景から浮かぶ「歪み」
「だから偏差値が低いやつは――」
これは、都内のとある公立中学校に通うAが、部活動の試合中に浴びせられた一言だ。審判を務めていたAは、試合中にミスジャッジを犯した。即座に謝罪したが、不利な判定を受けた選手の怒りは収まらず、この言葉を吐き捨てたという。その選手は、東大合格者数ランキングでトップを走る名門男子校の生徒だった。「誤審は自分のせいだが、あの一言は本当に許せない」とAは憤る。
たまたまかもしれないが、これと似たような出来事が立て続けに耳に入った。暴言を吐いたのはいずれも、中学1・2年生の男子御三家と称される生徒である。1970年代に御三家の一角である麻布高校の生徒たちが、全国高校野球予選で相手校の応援席に侮蔑的な発言を浴びせて社会問題となったが、令和の今も同じようなことが繰り返されているのだ。しかも、中学生が当事者となっている。
もう1つ、別の話を紹介したい。私は塾以外の学習支援活動にも携わっている。小学5年生のBは、通っていた塾を辞めて私が教える学習支援の場にやってきた。昨春、不登校になったことがきっかけだ。
一昨年、Bは親の仕事の都合で、中学受験率が推定8割を超えるという「名門公立小学校」に転入した。Bの父親によれば、不登校の原因は「学力のマウント合戦に疲れた」ことにあるという。
Bの両親は、好きな習い事を続けさせ、のびのびと育てる方針を大切にしていた。しかし転校後、Bは周囲に影響され、「中学受験をする」と言い出した。小学生の日常に「受験」や「偏差値」が深く入り込んでいる転校先の環境は、両親にとって予想外だったが、本人の希望を尊重して塾に通わせることにした。
Bは勉強が得意で塾の授業を楽しんでいた。しかし、どれだけ努力しても、マウントを取り見下してくる偏差値上位の相手には敵わないと感じていた。さらに、好きな習い事との両立もしだいに負担となっていく。そんな中途半端な状態を負けず嫌いの性格が許さなかったのか。Bはついに学校へ通うことができなくなった。
名門中学生の捨て台詞と、小学生を不登校へと追い込んだ学力のマウント合戦。異なる場で起きた出来事だが、私にはそこに1本の線が見える。両ケースとも、「受験や偏差値という土俵で生まれた歪み」を浮き彫りにしているように思えてならない。
中学受験のストレスの矛先が向かう、小学校現場
小学生は精神的に未熟である。学力が比較的高い小・中学生が集まる学習塾で指導をしているからこそ、私はこの事実を断言できる。
小学生は、ときに平気で、自分よりも劣っている子をバカにするような言動を取る。授業外でのやり取りも含めて丹念に観察している学校の先生方も、それは容易に気付けるだろう。自我が強まり、自分の優位性をひけらかそうとするのだ。その裏には、視野の狭さや他者への配慮の欠如といった社会的スキルの未熟さが透けて見える。
ここで指摘したいのは、学力の高さと社会性の未熟さというアンバランスさだ。にもかかわらず、塾や保護者は前者だけをより一層伸ばそうとする。そうした歪みが、前述の名門中学生の暴言や中学受験層のマウントなどにつながっていると感じる。
そして、その歪みのしわ寄せが、とりわけ小学校という場にきているように思う。
私は塾講師としての仕事の傍ら、ライフワークとして転居相談や、都内公立小・中学校の授業見学を続けており、そうした立ち位置からではあるが、保護者や学校の変化がよく見える。近年、都内の公立中学校はかつての「荒れた時代」から大きく改善し、非行生徒も激減して、すっかり落ち着きを取り戻している。
一方、Xの約4万9000人のフォロワー(2025年1月現在)の情報網や、2年間で400人以上の保護者の相談に応じていく過程で、「〇〇小学校の〇年〇組が荒れている」という生々しい声も届くようになった。
都内の保護者からはこんな声をよく聞く。
「受験率の高い公立小学校では、中学受験組が授業中に騒いだり、ストレスで荒れたりすることがあった。しかし、公立中学校に進むと驚くほど落ち着く。荒れていた子たちはみな、私立中学に進学していった」
小学生にとって、現代の中学受験は莫大な拘束時間を伴い自由を奪う。家に帰れば、伴走する保護者とともに受験勉強に明け暮れ、ストレスの矛先を学校に向けることも少なくない。もちろん、それが許されるべきではないが、社会性が未熟な10歳、11歳に成熟した振る舞いを求めるのは酷だと言わざるを得ない。そして、子どもたちのストレスを受け止める負担を背負わされているのが、小学校の現場で働く先生方であることを忘れてはならない。
中学校の3年間で大きく変わる「社会性」
こうした小学生時代の未熟さは、成長とともにどう変化するのか。それを実感したエピソードがある。高校受験を目指す進学塾で、公立中学3年生の男子数人と話したときのことだ。
「偏差値の低い人は努力不足だと思うか?」と、ふと私が問うた。
C君が、次のように答えた。
「努力不足の人もいるかもしれませんけど、ここに通う人は、一番下のクラスの人でもめちゃくちゃ努力してますよ。正直、俺よりも努力してる人はたくさんいます。俺は勉強ができるほうですけど、たまたま勉強の才能に恵まれただけです」
D君もこう続けた。
「〇〇とか、毎日自習室に来てるじゃないですか。勉強は得意じゃないですけど、あいつの努力を見て『努力不足』なんて言えるやつ、誰もいないですよ」
周りの生徒たちも口々に「うんうん」とうなずく。やがて話題は、彼らが学校生活で感じる家庭の経済格差へと広がっていった。「学校に家庭の事情で塾に通えずに無料塾に行っている同級生がいる」といった言葉に、彼らの視野の広さを感じた。
小学生の頃には勉強ができない子に思いをはせることができなかった子も、中学3年生になる頃には、他者を思いやったり、経済的事情を理解したりする視野の広さを身に付けていく。中学校の3年間という期間に子どもたちは社会性を大きく成長させるのだ。
冒頭で触れた名門私立中学生の暴言やマウント合戦が象徴するように、「偏差値」や「学力競争」という魔物は、時に子どもたちの人格を歪めるほど強い力を持つ。しかし、それに支配されず、冷静に自分を保てる「自我」を持つことができるのが、15歳という年齢なのだと思う。
もちろん、中学受験をせず公立中学校に進んだ生徒たちも高校受験のプレッシャーを多かれ少なかれ感じているはずだ。ただ、それが小学校時代のような荒れにつながらないのは、自分中心の視点から抜け出し、周囲を客観的に見る力が身に付いているからだろう。それが、小学校では手に入らなかった“成熟”という宝物なのだ。
「あえて中学受験をしない」家庭が増えている
人格や価値観の基盤が形作られるのは、一般に小学5年生頃までと言われている。来るべき「成熟期」に向かって、この人格形成の「総仕上げ」とも言うべき小学校生活後半の時期に、どのような経験をさせるべきか。保護者は一度立ち止まって考える必要がある。
現在、中学受験を選ぶ家庭の増加に伴い、自己肯定感を損なう子や心身を壊す子が増え、社会問題化している。さらに中学受験の「勝者」でさえ、競争の中で人格形成に悪影響を受ける例が少なからず見受けられる。とくに都市部では中学受験競争が過熱し、中学受験をするかどうかは、小学校生活の過ごし方そのものを左右する決断になりつつある。
こうした状況に疑問を抱き、「あえて中学受験をしない選択」を模索する家庭も実は増えている。中高一貫校出身の保護者や、中学受験の専門家が、自分の子どもに公立中学進学を選ぶ例も珍しくない。
私は、「小学生のうちは偏差値競争から距離を置き、英語の先行学習と自立学習重視の学びを進めつつ、好きなことや得意なことに打ち込む」という新しいルート、「戦略的高校受験」を提唱している。
大学入試改革によって、中学受験に象徴される「学力一本足ルート」は、少しずつ縮小に向かっている。今後は、ロボットづくりやスポーツなど、自らの「好き」を伸ばす学びが重視される時代が本格化していくだろう。
これから求められるのは、小学校時代に培った「基礎学力」だけでなく、習い事や探究活動を通じた「専門性」、多様な活動から得た「経験」、そしてコミュニケーション能力や粘り強さといった「人間力」だ。これらを総称して「社会性」と呼びたい。いわば、学力だけでなく「人としての力」が評価される時代に突入している。
教育熱心でありながら高校受験ルートを選択するご家庭の多くは、中学受験をパスした時間的ゆとりをこの「社会性」に振って育てている。幸い、高校受験は中学校の学習ベースでも対応ができる。ある中堅の都立高校の入学者アンケートによると、中学時代に継続して塾に通っていた生徒は6割にとどまる。学力上位層が多く集まる私の塾でも、自立学習スタイルで勉強を進めてきた子が1年弱の通塾で上位高校に合格している。
中学受験か高校受験か――どちらを選ぶべきか悩む保護者にとって、時代が求める能力の変化や高校受験ルートの実状は大きな指針となるだろう。子ども自身が興味を追求できる環境を整え、「社会性」を身に付けることが重要だ。その意味で、「戦略的高校受験」を選択する考え方は、都市部でもっと浸透してほしいと思う。
(注記のない写真:Fast&Slow/PIXTA)