突然の校長職のオファーを決断したワケ
経済産業省の教育産業室長として教育改革を担ってきた五十棲浩二氏が、今年9月7日、徳島県神山町にある神山まるごと高専の校長に就任した。
同校は2023年4月に全寮制、デザイン・エンジニアリング学科の1コースのみ、1学年40名という形態で開校。「テクノロジー×デザイン×起業家精神」で社会変革をもたらす新たな人材育成を掲げ、企業からも大きな注目を集めている学校だ。学費は実質無償化されており、「スカラーシップパートナー」となるソニーグループやソフトバンクなど計11社から成る「一般社団法人神山まるごと奨学金基金」を組成し、運用益を学生に奨学金として給付する独自の仕組みを採る。
そんな注目の学校の校長職とはいえ、経産省を辞めての転身は本人にとっても一大決心だったのではないだろうか。今回、教育体制の強化を行う中でのバトンタッチとなる。五十棲氏が理事長の寺田親弘氏(Sansan創業者兼代表取締役社長)から声がかかったのは今春のこと。そのとき感じたことを、五十棲氏は次のように振り返る。
「シンプルに言って、この学校はすごく面白い。人口5000人に満たない神山町に、企業をはじめ社会との連携が活発に行われている高専がある。誰も発想したことがなかった学校です。しかも学費無償で、どんな環境に育った子どもであっても、意欲があればイノベーションの担い手になれると感じられる場ができたのです。10代の多くが『社会を変えられるとは思わない』と回答した調査結果もありますが、そんな日本の雰囲気を変える学校ではないかと感じましたし、このお誘いを受けないと後悔するなと思いました」
自身のキャリアもすべて生かせると感じた。五十棲氏は東京大学法学部を卒業後、2001年に経産省に入省。資源エネルギー庁、内閣府、環境省などを経て、2014年から官民交流制度により中高一貫校の私立聖光学院中学校高等学校に勤務。英語や現代社会の授業を担当するほか、校長補佐としてキャリア教育や国際化を進めた経験を持つ。
「経産省で企業や自治体、教育委員会などと仕事をしてきたほか、教員経験を含めて学校に7年勤務し、慶応SFCの大学院博士課程で研究する中でプログラミングやデータサイエンスなどにも触れてきました。こうした経験からさまざまな分野の方との共通言語を理解できる点も、多様なバックグラウンドを持つスタッフや学生と挑戦していくうえで生きるのではないかと思いました」(五十棲氏)
経産省の教育産業室長は任期付きの民間人採用であり、一定期間での経産省勤務の後には再び民間での活動も視野に入れていたため、数週間でオファーを受ける決断をした。家族も賛同し、単身赴任の形で9月初旬に神山町に移住。自然に恵まれた環境と、スタッフのエネルギーに満ちた空気感が印象的だという。
「すべてスタッフの皆さんがプロフェッショナルの立場から学校をつくろうとしています。官僚の仕事も面白かったですが、今のほうがより手触り感がありますね。自分たちで1つひとつプロジェクトをつくっていくことは、緊張感があるとともにワクワクします」(五十棲氏)
「やっていることは大きな意味では一緒」
これまでの日本の公教育は、平等・公平の観点から「揃える学び」に重点が置かれてきた。それは日本の教育のすばらしい価値の1つだが、その一方で、「伸ばす学び」のサポートも必要ではないかと五十棲氏はつねづね考えてきたという。
「やりたいことが明確な子がいた場合、それが100人中5~10人くらいの割合だと税金で支援するのは難しく、家庭でやってくださいというのが現状です。つまり、日本の教育には『公助』と『自助』しかありません。しかし、これからは価値創造人材の育成も必要です。そこを『共助』によって支援できないかと、経産省では『未来の教室』プロジェクトを進める中で実証事業を行うほか、研究会を設けてエコシステムづくりの検討にも力を入れてきました」(五十棲氏)
立場は変わったが、「その思いや、やっていることは大きな意味では一緒だ」と五十棲氏は言う。
「学費無償化の仕組みなどのように、神山まるごと高専でのさまざまな取り組みが好事例となって公教育に貢献できることもあるでしょうし、民間の立場から応援できることもたくさんあると考えています。教育は長い時間のかかる取り組みであり、必ずしも役職が大事なのではなく、やっている内容が大事。もちろん、これまでの取り組みにおいてできなかった部分や反省点もありますが、引き続き1つひとつの事例をつくっていきたいと思っています」(五十棲氏)
現在、神山まるごと高専は開校して2年目。今年度は、経営体制を強化する目的で、五十棲氏のほかにも新たなメンバーが移住して参画している。
その1人が、今年4月に副校長に就任した鈴木敦子氏だ。
起業家型リーダーの育成を通じて社会の発展に寄与することを掲げるNPO法人ETIC.の立ち上げに携わり、約30年間、多くの起業家を支援してきた。
「今も『個人の起業家精神が発揮される社会づくり』というミッションは変わらないという感覚ですが、学校の業務は初めてで試行錯誤。多様な背景や価値観を持つ学生やスタッフと、新たなカルチャーを共につくっていく途上だなと感じているところです」と、鈴木氏は言う。
もう1人は、今年3月までデロイトトーマツコンサルティング執行役員だった田中義崇氏である。
企業として神山まるごと高専を支援していた縁をきっかけに、今年4月からパートナー兼寮のディレクターに就任した。
「この学校は、環境も人もカリキュラムも極めて恵まれています。その中で、学生が人生をかけてやりたいことを見出したり、その成長の加速度を最大化したりすることを『支援』と『応援』とのバランスを取って実現していくことが課題だと考えています」(田中氏)
与えすぎず、意欲に対して引き出しを提示するような応援を
鈴木氏と田中氏の話からも、新しい学校づくりは一朝一夕にできるものではないことがうかがえる。五十棲氏は現状の課題について、こう語る。
「今は1年間のサイクルを終えたことで、よくも悪くもこのサイクルを回し続ければいいという安定の力が働きやすい状況にあります。ただ、私たちはこれまでにない学びの形をつくることを目指しています。さまざまなトラブルともうまく向き合いながら、挑戦し続けることが大事で、学生にも個々の葛藤と向き合って成長につなげてほしい。つねにフレッシュな気持ちで議論や挑戦ができる環境をどうつくり続けるのかが課題です」(五十棲氏)
校長としては、自身のカラーを出すというよりは、学生たちが主体的となって試行錯誤を楽しみながら、新たなチャレンジができる環境をつくりたいと考えている。
「そのためにも、大人が挑戦している姿を見せることが一番の応援だと思っています。教員も既存の枠にとどまらない多様なスタッフが集まっていますので、彼ら自身がロールモデルになることで学生たちに多様な価値観を示していきたい。手を出して何とかしてあげたくなってしまうのをこらえて見守る姿勢を共有したいですね。コーチングやメンタリングのような形で、学生自身が自分の状況を俯瞰して自己決定できるような支援は必要だと思っていますが、基本的には与えすぎず、学生の意欲に対して引き出しを提示するような応援を軸にやっていけるといいなと。日本の学びのあり方、高専のあり方、企業と学校の関わりのあり方に、一石を投じられるような学校をつくっていきたいと思っています」(五十棲氏)
(文:國貞文隆、写真:神山まるごと高専提供)