マジョリティとは「権力にアクセスしやすい人」
──「マジョリティの特権」とは、何を意味しているのでしょうか。
マジョリティの特権とは、たまたまマジョリティ側の社会集団に生まれてきたり、マジョリティ側の属性を持っていたりすることで、「労なくして得られる優位性」「自動的に受ける恩恵」を指します。
その際、英語の意味は「マジョリティ=多数派」ですが、社会的公正教育の文脈では、より権力にアクセスしやすい立場にいるのがマジョリティ、権力から遠い立場にいることをマイノリティと捉えます。
例えば、私が教えている上智大学の英語学科では女子学生が約7割を占め、男子学生は約3割です。教室の中では確かに少数派に属していますが、だからといって男子学生が社会の中で性別においてマイノリティというわけではありません。英語学科を一歩出れば、男性は優位な社会構造の中にいるからです。
また、同じ人間であってもある部分はマジョリティに属し、ある部分はマイノリティに属している、ということが起こり得ます。つまり、私たちは「マジョリティ性」と「マイノリティ性」両方の属性を併せ持っているのです。
――「マジョリティ性」「マイノリティ性」について、具体的にお聞かせください。
人は、人種、ジェンダー、性的指向、学歴、社会階級など、さまざまな属性を持っています。その属性がマジョリティ性とマイノリティ性、どちらに当たるのかをまとめたものが次の図です。ご自身はどちらが多くなるかチェックしてみてください。左側のマジョリティ性の列に多くチェックが入った方は、特権を多く有していると言えます。
私の場合、出生時に割り当てられた性別は女性でマイノリティですが、それ以外ではすべてマジョリティの属性を持っています。ところが、幼い頃に住んでいたアメリカでは、アジア人なので人種的にはマイノリティでした。環境や文脈が変わるとマジョリティ性とマイノリティ性は変化するのです。
今、「異性愛者、高学歴、健常者、シスジェンダー」の日本人男性はマジョリティ性を多く持っており、日本にいる限りはマイノリティの経験をすることは比較的少ないでしょう。しかし、海外、とくに欧米に滞在するとおそらく人種的マイノリティを体験し、その居心地の悪さが理解できるようになるなど、マジョリティ性とマイノリティ性の属性を意識したり、向き合う視点が得られるはずです。
私もアメリカから帰国したときにまず感じたのが、私に向けられる視線が中立または好意的だったこと。何かを行う際に「自分はちゃんとした人間です」と証明しなくても信頼してもらえたので、「自分はここではマジョリティなのだ」と実感しました。マイノリティに対する厳しい視線を向けられることがない、それだけでもかなりの恩恵だなと感じたものです。マイノリティ体験は、自分のマジョリティ性に気づくきっかけとして、とても有効です。
不公平な社会構造、まるで「透明な自動ドア」
──マジョリティ性が多いと、やはりマイノリティの人がどう感じているかということに気づきにくいのでしょうか。
マジョリティの特権は、いわば「透明な自動ドア」のようなもの。自動ドアはセンサーで人を検知して開きますが、今の社会はマジョリティに対してドアが開くような構造になっています。
目的地に向かって歩くとき、マジョリティ性が多い人は透明なドアが自動的に次々と開くので、どんどん前に進むことができます。たまたま権力に近い属性を持っているから「センサーが自動ドアを開けてくれる」という恩恵を受けられているのに、「ここまで到達することができたのは、自分の努力の結果である」と捉えてしまいます。ドアがあることにも気づきません。
一方、マイノリティ性が多い人の場合は自動ドアが開かず、努力してもなかなか前に進めません。ドアを自力でこじ開けなければならないなど、負荷がかかるため、センサーが不公平に働く社会構造に気づくんですね。
つまり、行く先を難なく進めるかどうかは、その人の努力だけではなく、構造に由来するのですが、ずっとマジョリティ側にいるとその構造に気づかないんです。
──そうした社会構造がさまざまな差別を生んでいるのですね。
心理学的には、差別には「直接的差別」「制度的差別」「文化的差別」の3つの形態があるとされています。
直接的差別とは、その人の属性を理由に他人を侮辱したり排除する言動を行うもの。個人から個人への差別ですね。制度的差別は、法律や教育、政治や企業などの制度の中で行われます。決定権が権力に結びついており、ある集団が不利な立場になってしまう差別です。そして、文化的差別は、ステレオタイプや固定観念、社会規範など、人々が共有しているものです。
マイノリティが受けるステレオタイプによる差別の例を挙げましょう。私がアメリカの学校に通っているとき、いつも「アジア人としてどう思う?」「日本人の意見を聞かせて」と言われました。白人のクラスメイトは「○○さんはどう思う?」と個人としての意見を聞かれ、「白人としてどう思う?」とは聞かれないのに。このように属性で一括りにされ個人として扱われないことは、いろいろな場面で起こります。
先日もこんなことがありました。本学のある講義で企業の方が講師としていらっしゃったのですが、その方が車椅子ユーザーだったため、ある学生は「きっと障害に関する話をするのだろう」と思ったそうです。しかし、その方は障害にはいっさい触れず、まったく違う自身の業務内容についてお話しされたため、学生は「自分がステレオタイプで相手を見ていたことに気づいた」と言っていました。
意思決定の場にマイノリティの人はいるか?
──教育現場に存在する「マジョリティの特権」による弊害は、どんなものがありますか。
まずは「カリキュラムを決めている人は誰か」という点ですね。意思決定権のある立場にマイノリティの人がいなければ、透明な自動ドアがバンバン開く人の視点だけで組まれたカリキュラムになります。
そのことが実感できるアクティビティーがあります。私もよく講義でやるのですが、教室の最前列の前にゴミ箱を置き、学生には自分の席から丸めた紙を投げてもらいます。たまたま前の席に座っていた学生は簡単に成功しますが、後ろの学生はなかなか入れることができず、ゴミ箱すら見えない学生もいます。
前の席の学生はゴミ箱だけを見ているので、後ろの席の学生が見ている不条理な風景はわかりません。まさに社会の縮図ですよね。不利な立場にいる人のほうが、不条理な構造を実感しやすいのです。そのため、不条理な構造が見えていない、実感できていない人たちが権力を持ち、意思決定の場にいることは大きな問題です。
──その状況を変えるにはどうすればいいのでしょうか。
権力を持っている方々に、自分のマジョリティ性を自覚してもらうことでしょう。自分がマジョリティの特権を持っていることや構造的な差別があることに気づき、不条理な社会構造を変革する力になってもらえたらと思います。
もう1つは、意思決定の場にマイノリティ性を持つ人を入れること。これが一番早いですね。マジョリティ性が多い人がどんなに優秀でも、自分以外の立場の視点は持ちにくいもの。知識だけ増やしても限界があり、よかれと思ってやったことも空回りします。
だからこそ、ダイバーシティを推進していくには、リーダーの人、とくにマジョリティ性の多いリーダーこそ、マイノリティの方々の話に謙虚に耳を傾けること。マジョリティ性が多い人は、とくに自分が困っていないため、「自分は差別なんかしていないし、努力もしているから変わる必要がない」と思いがちですが、自身が持っている特権やマイノリティに対する偏見に気づき、自己変容することが重要です。
「マジョリティはすでに配慮されている」という視点を
──教育現場もインクルーシブ教育や、理工系学部で女子枠入試を導入するなどジェンダーギャップの解消が推進され、多様性が重視されるようになってきています。そうした中、多様な子どもと日々接する教員は、「マジョリティの特権」という視点から学級経営をどう考えていけばよいでしょうか。
障害学を専門とする社会学者の石川准氏は、「『配慮を必要としない多くの人々と、特別な配慮を必要とする少数の人々がいる』という強固な固定観念がある。しかし、『すでに配慮されている人々と、いまだ配慮されていない人々がいる』というのが正しい見方である。多数者への配慮は当然のこととされ、配慮とはいわれない。対照的に、少数者への配慮は特別なこととして可視化される」と、著書『見えないものと見えるもの―社交とアシストの障害学』(医学書院、p242)で書いておられます。
例えば、視覚障害者の方には夜間の街灯は必要ありません。つまり、健常者が夜に行動しやすいように配慮されているということです。現状の社会はマジョリティに合わせて設計されています。
このように社会がマジョリティにすでに配慮していることや、マジョリティの特権を可視化していかないと、不平等の是正であるはずの合理的配慮や理系の女子枠入試などに対しても、「なぜ特別扱いするのか」「逆差別ではないか」といった声はなくならないでしょう。教員の皆さんも、そうした視点を持つことが必要かと思います。
異なる立場を体験できるようなワークショップもありますので、参加してみるのも1つの手でしょう。今ならNHKの朝ドラマ「虎に翼」も、日本人男性特権や社会階級特権を学ぶ教材としてとてもよいと思います。
それから、教員の皆さんには「自分は絶対的な権力を持っている側にいる」ということを自覚していただきたいです。児童生徒や学生に対して教員は圧倒的な力を持っているので、教員自身が偏見を持っていないつもりでも無自覚に傷つける立場になってしまいやすい。学校が楽しくて先生になった方も、おそらくマジョリティの経験が多く、マイノリティの子の気持ちが理解しにくいところがあると思いますので、自覚的になったほうがいいと思います。
そして、構造的差別に気づくとともに、マイノリティ性の多い児童生徒や子どもに対して「かわいそうだから助けてあげよう」などといった上から目線ではなく、どうすれば彼らにとって自動ドアが開く状態になるのか、どう開かないのかを気にしながら、相手がそうした障壁に立ち向かわなくてもいいようにするには何ができるのかを、改めて考えてみていただけたらと思います。
(文:吉田渓、注記のない写真:Fast&Slow/PIXTA)