「骨をさわって生き物を学ぶ」、約50年続く生物の授業

2023年10月のとある日。筑波大学附属視覚特別支援学校の一室で、1年B組の理科の授業(3・4時間目)が始まった。1年B組は、弱視の生徒が通うクラスだ。

同校の理科教諭である武井洋子先生が、6人の生徒に向け「今日からみんなには、動物の骨をさわってもらいます。かつて生きていたある動物の骨で、『動物A』として観察していきます。観察するときは筆記用具を置いて、両手でさわりましょう」と言った。

生徒たちからは、「いよいよ来たか!」といわんばかりの期待と若干のとまどいが入り交じった様子が見てとれる。

「この骨は、『全身』かもしれないし、『部分』かもしれません」と言いながら、先生は、生徒たちの前に、1人1個ずつ、「動物A」の上顎の骨を置いていく。

「あ、歯みたいなのがある。目もついているみたい。まんまるな穴が開いているから」
「これ、上の歯じゃない?」
「『部分』の骨! 頭の骨!」

思うがまま、感じるままに言葉を発する生徒たち。先生は、上顎の骨に続き、下顎の骨を一人ひとりに渡す。

「あ、上と下が噛み合った」
「下にも歯がある。長くて尖って、牙みたい」
「なんか恐竜みたい!」

動物の骨を両手でさわって特徴をつかんでいく

生徒たちの言葉を聞きながら、「皆の予想どおり、この骨は『部分』の骨で、頭全部の骨。頭蓋骨という言い方もあります」と、武井先生。

「では、この頭の骨は、どんな形で、どんな大きさで、どんな手ざわりなんだろう。動物Aの骨を自分と同じ方向に向かせて、右手で動物Aの頭の右側を、左手で動物Aの頭の左側をさわるようにしましょう」と声をかけ、「全体の形は?」「大きさは、どんなふうに測ればいい?」などと生徒たちに問うていくうちに、あっという間に3時間目が終わった。

手で「見て」対話を重ね、生物の特徴をとらえていく

4時間目。観察が進むうち、「動物A」の鼻だと思われる空洞が、1つだけだということに気づいた。

「あれ?おかしいよね。鼻の穴って、2つあるはずだよね」と、先生。
「穴の奥に2つの分岐点がある。穴の入り口は狭いけど、中は広い」と答える生徒に「いいことに気がついたね」と、声をかける。

100円玉と500円玉を使って目の大きさを観察すると、今度は目の後ろの空間に下顎の骨が入り込んでいることに気づく。先生が「どんな骨?」と問いかけると、

「細くて平らな骨で、カーブしている」
「これ、上顎と下顎をくっつけている骨なんじゃないかな」
「その骨の周りには、筋肉があったんじゃない?」など、矢継ぎ早に言葉を発する生徒たち。

「いい意見が出ましたね。この骨をもう1回、皆でさわってみましょう」と、先生。その後も、ほお骨は平たくカーブしていること、ほお骨の後ろをたどっていくと耳の穴があり、その穴を出入り口にしている部屋もあることなどを発見した。

100円玉と500円玉を使って目の大きさを観察する

授業の最後は、生徒たちが手でさわって発見した数々について、皆で振り返りながらノートに言葉で記していった。この日に発見した事柄は、じつに13にも及んだ。

2時間続いた授業だったが、教室中が常に対話にあふれていたのに加え、生徒たちの集中力、骨をさわって気づいたことやわかったことについて物怖じせず発する言葉の多さ、多様さ、鋭い視点に圧倒された。

ちなみに、「動物A」はイヌ科のコヨーテだそうだが、授業では最後まで名前は明かされなかった。「動物A」が基準となり、この日を皮切りに3週間にわたってAの骨の観察が続く。全身骨格の観察は3学期に行われるが、頭の骨の観察だけで、聴覚や嗅覚がすぐれていること、肉食であること、四足歩行であることなどを皆でイメージしながら「イヌ」にたどりつく。生徒たちは、目で見えないぶん手で「見て」、それらを言葉にして武井先生と、生徒同士でじっくり時間をかけて対話を重ね、想像し、生物の特徴をとらえ、「命」を感じ取っていくのだ。

観察する人=生徒が“発見者”の立場に立てる授業を

筑波大学附属視覚特別支援学校の生物の授業で、骨をさわる授業が始まったのは、1975年。

中学校の植物や動物の学習では、多様性と共通性が学習の柱となる。その学習のためには、植物や動物を、まず目で見たり、顕微鏡を使って観察することが多く、視覚に障害のある生徒にとっては大きな壁となる。

当時、同校で生物を担当していた生物学者・青柳昌宏氏と、視覚に障害のある児童生徒向けの教育・指導法が専門の鳥山由子氏が、「視覚に障害のある生徒が動植物をじっくり観察する体験を通し、生物を学ぶ楽しさを味わってもらいたい」と、生徒たちの五感を使った画期的な自然観察の方法を考え出した。その1つが、骨をさわる授業だった。

当時、筑波大学の学生で土壌微生物の研究を行っていた武井氏は、教育実習の際に盲学校の理科の授業にふれ、「自分もこんな授業をしてみたい」と、理科教師を志すことを決めたという。その後、1990年秋に同校に赴任。初代の青柳昌宏氏、2代目の鳥山由子氏に続く3代目として、じっくり手でさわる生物の授業を引き継いだ。武井氏は言う。

武井洋子 (たけい・ようこ)
筑波大学附属視覚特別支援学校理科教諭
1962年生まれ。筑波大学大学院修了後、神奈川の県立高校教諭を経て1990年、筑波大学附属視覚特別支援学校に赴任。同校で1975年から続く中学1年の生物の授業を引き継ぎ、「さわる授業」を実践している。視覚障害のある生徒たちに科学の魅力を伝える「科学へジャンプ」にも携わり、各地で実験や観察の楽しさを紹介している。公益財団法人日本自然保護協会(NACS-J)の自然観察指導員として、身体の不自由な方、子どもからお年寄りまで誰でも参加できる自然観察会「ネイチュア・フィーリング」にも参画
(写真:武井氏提供)

「(動物の)名前を最初に聞いてしまうと、わかった気になってしまいがちですよね。名前は、究極わからなくてもいいんです。自分で調べて、自分の感覚を通して『あっ、こうなっていたんだ』と気づいたり、わかったりすることが、学びの原点。教師は、生徒に教え込まない。最初から解説をしない。観察する人=生徒が常に“発見者”の立場に立てるよう授業を進めています」

生徒たちは、自ら骨をさわって何かに気づくと、嬉しくて、心が動いて、言葉を発したくなるのだろう。

「そのタイミングで『何でもいいから気づいたことを言ってごらん』と言うと、その発見を言葉にします。それを『いいね〜大発見だね』とほめると生徒は喜び、周りの生徒も『僕も(私も)ほめられたい』って頑張って、さらに知りたいと思ってまた発見し、また言葉にする。それを繰り返すことで言葉が磨かれていくし、周りの友達の表現を聞いて、自分の表現を言い直したりできるようになっていく。教師の私の役割は、いうなれば、生徒たちの言葉の“受信アンテナ”なんです。生徒たちの言葉になるべく敏感に反応し、できるだけ多く拾ってあげたいと思っています」

同校の生物の授業では、骨をさわる授業に先駆け、中学1年の4月から9月までは、校庭の木の葉の観察を行っている。最初に1つの植物の葉をじっくりさわって形や手ざわりに注目し、生徒自身の感覚をフルに活用して観察。その内容を的確な表現で言い表せるよう、観察力や表現力を養う。

それを受け、10月から始まるのが、この骨をさわる授業だ。「動物A」の授業の後もさまざまな動物の骨を観察し、最終的には上野動物園に所蔵されている大きな動物の骨を観察するそうだ。

「視覚に障害があっても、ほかの感覚を駆使して丁寧に観察し、調べる力、調べた成果を言語化する力を中学1年生の時期に身につけることは、理科のみならず、社会生活のあらゆる場面で役立ちます。それにより、生きていくうえで必要な力が得られると思っています」

「ひょう」の観察と「干し柿用渋柿」の味見のサプライズ

今回、授業の最初と最後に「サプライズ」があった。最初のサプライズは、「ひょう」の観察だ。くしくも授業の前日、都心のこの地域ではめずらしい、ひょうが降ったそうだ。

「今日しか見られないものがあるから、骨を見る前に外に見に行こう」と、武井先生。校庭のすみっこの日陰に向かい、皆で地面に手を伸ばし、ひょうを手にとる。

「わあ、冷たい!」
「ひょうって、意外と大きいんだ」
「ひょうのつぶが集まって、ぶくぶくしてる」……。

目で見えなくても、手でひょうを見て、感じている。

めずらしく都心でひょうが降ったため、授業の最初にみんなで観察した

授業の最後には、以前同校に勤務していた化学の先生が石川県から送ってくれたという干し柿用渋柿の果実の部分を切り分け、皆で味見をした。「においを嗅いでから、口にしてみましょう。どう?甘みはある?」と問いかける先生に、

「うわっ!何これ!」
「最初は甘いけど、途中からこなっぽい」

など口々に反応する生徒たち。「これは、渋みといいます。この柿をこれから干すことで、渋みをとることができます」と先生は答える。

武井氏は、授業の中で、「季節」も大切にしている。「ひょう」や「干し柿」のような、今、この時期にしか見られないものや触れ合えないものを生徒たちに体験させることで、自然の不思議や、物事の変化の面白さ、目の前のことに目を向けることの大切さを伝える。生徒たちに、学びの喜びだけでなく、生きる喜びも伝えているように見えた。

中学校理科教員が「さわる授業」見て感じたこと

授業のあと、先生たちをまじえた振り返りの様子
(撮影:筑波大学附属視覚特別支援学校)

今回の授業は、都内の中学校に勤務する理科教員3名も共に見学した。理科教員は、それぞれの勤務校で、生徒が自ら問いをたて、自律的に実験観察に取り組み学びを深める「探究理科」の授業を実践している。府中市立府中第六中学校理科教諭の井久保大介氏は、こう話す。

「武井先生の授業では、まず『発見』や『驚き』など感覚的な体験を大切にしています。そして、その体験を言葉で表現し、一緒に探りながら誰もが納得できるような理解へとつなげていきます。このことは、目が見える見えないは関係なく、あらゆる事象を科学的に理解するために重要です。しかし視覚優位の世界に生きている私たちは、普段の授業では目に見えている事象にとらわれすぎて、感覚的な体験や言葉による表現を軽視してしまっていることが多いのではないかと気づかされました。科学的な思考においては、単に条件やデータにこだわることではなく、『誰もが納得できる言葉で表現するために言葉をどれだけ尽くしたか』ということも重要だと思いました」

芝国際中学校・高等学校理科教諭の青木孝史氏は、「計画を綿密に立てて作り込みすぎてしまうと、アドリブが入る余地がなくなって無味乾燥な授業になってしまうし、だからといって計画を立てないとだらだらした授業になってしまいます。その辺のさじ加減が難しいのですが、武井先生の授業は見事なバランスでした。生徒への問いの出し方や言葉のすくい方は、武井先生にしかでない生徒とのキャッチボールであり、問いづくりの“名人芸”を見させてもらった気がします。『生徒が少人数だからできること。30人の生徒を持つ自分にはできない』と思ってしまうのではなく、『30人の教室で、このようなキャッチボールを行うためにできることは何だろう』と考えるヒントをいただきました」と言う。

かえつ有明中・高等学校理科教諭の深谷新氏もこう続く。

「視覚に障害がある生徒にとって、さわることは、文化。最初は恐怖や不安を感じることもあるけれども、触覚を通して物理的な性質や感覚を理解していくことでそれらを克服し、共通言語を獲得していく手段であることが認識できました。いっぽうで、見えている人にとっても触覚は重要な感覚で、見た目だけではわからない物理的な性質を触覚を通して知ることで、新たな気づきを得ることができます。単に『さわらせる』のではなく、生徒たちが自ら『さわりたい』と思うような授業デザインの大切さも学びました。ひょうをさわったり柿を食べたりする瞬間は生徒にとって最高の時間。今できることに目を向ける授業は、誰にとっても学びの多い時間になると思います」

すべての教室で取り入れる可能性を秘める「さわる授業」

人間が受け取る情報のうち、約8割は視覚からの情報だといわれている。視覚に頼るところが大きい私たちは、見ることで理解したつもりになってしまい、見ているようで実は(本質を)見られていないことも多いのではないだろうか。

武井氏の話で、こんな言葉も印象的だった。

「今、知りたいことはパソコンやスマートフォンで検索すればすぐにわかります。しかしその内容は、知らない誰かが調べてわかったこと。調べたその人の言葉としてインプットされるわけですよね。検索ももちろん大切だと思いますが、学びの本質は、自分自身の感覚を通して得たことにあると思うんです。それは世界で初めての出来事ではないかもしれないけれども、その子にとっては初めての発見であり、初めての気づきです。それらはとても楽しく嬉しいものであり、時には、魂が震えるような感動を覚えることもあるでしょう。それこそが理科の醍醐味であり、学びそのものなのではないでしょうか」

武井氏は続ける。

「当校で学び、自分の言葉で自分の意見や思いを言えるようになった生徒たちは、いずれは外の世界に飛び立ちます。そのとき、周りの人たちに、『自分は○○はできますので○○についての配慮は必要ありません。しかし、△△はできませんので×××のように支援していただけたら助かります』など、自分自身が必要な支援をしっかり説明できる人になってもらいたいと思っています」

すでに定年を迎え、延長雇用で勤務している武井氏。引退後は同校のほかの理科教員が「さわる授業」を引き継ぐべく、24年度からティームティーチングで授業を行っていく予定だという。

約50年にわたって続いてきた「さわる授業」には、「手で見る」ことによって「わかる」「できる」を味わいながら知識を深め、学びへの意欲を高めるという大きな意義がある。

学びの本質は、障害のあるなしにかかわらず、すべてに共通するものだ。それは、自らの感覚を通して対象を理解し、その知識を自分のものにすることなのではないだろうか。

「さわる授業」は、まさにこの学びの本質を体現した授業だ。「主体的・対話的で深い学び」が求められる今、同校がこれまで培って来た実践のノウハウや思想は、視覚特別支援学校のみならず、すべての教室で取り入れることができる可能性を秘めている。

(企画・文・撮影:長島ともこ)