投稿者:鳴海純(仮名)
年齢:20代
居住地:地方都市
勤務先:中学校(退職済み)

「魔法にかかっていた」、家庭教師と教育実習で教員を志す

鳴海さんは最初から教員志望というわけではなかった。経営学部に進学し民間企業への就職を考えていたが、アルバイトを通して考えが変わる。

「家庭教師をしていて、人に教えるのが楽しく思えたんです。最初は派遣会社経由でしたが、次第に自分でも営業をかけて個人契約も増やしました。念のためとっていた教職課程の教育実習でも生徒たちの反応が良くて、色紙ももらって……。すごく達成感がありました」

「まるで魔法にかかったようだった」と当時を振り返る鳴海さんだが、不安もあったと話す。ちょうど、文部科学省のSNSプロジェクト『#教師のバトン』が“大炎上”していた頃だったからだ。

「先生方の悲痛な投稿をたくさん目にしていたので、正直よいイメージは持てませんでした。でも、教員採用試験に合格して『1回やってみよう』と思ったんです」

一抹の不安を抱えながら教員の道に覚悟を決めた背景には、民間企業への就職難もあった。コロナ禍を背景に、厚生労働省は当時の新卒の就職内定取り消しが前年度の約5倍に増えたことを明らかにしている。「教員ならクビにならないだろう」というのも率直な思いだった。

しかし、そうした社会情勢が影響してか否か、赴任先の校長は鳴海さんに冷や水を浴びせるような言葉をかけたという。「君を採ったのは、特別支援学級の人手が足りなかったからだ」――。

「特別支援学校教諭の免許があるならともかく、私は中学校社会科の免許しか持っていません。正直納得できませんでしたが、反論はできませんでした」

ICTに部活動、「誰もやりたがらない仕事」を押しつけられた

鳴海さんは特別支援学級の担当だけでなく、ICTや部活動の顧問も任された。

教材の作成やICT活用授業の実践、推進委員会の立ち上げから学校内のルール策定、PCのセットアップまで、主任の教員はほとんど何もせず、鳴海さんがメインで動かなければならなかったという。要は、若くて担任を持っていないという理由で“誰もやりたがらない仕事”を押しつけられたのだろう。

部活動も同様で、すでに顧問が2人いたにもかかわらず、いきなり中心的な役割を求められた。初日から、活動予定表の作成や大会への引率を頼まれ、その他細々とした仕事のすべてを引き受けることに。大会や練習試合で土日はつぶれ、既存の顧問たちはほとんど出てこなかった。

「最初は、『部活動手当が出るからいいか』と思っていたんです。でも、1日3000円にも満たない額※1ですから、交通費と食事代を出せば赤字。それでも、『強くなりたい』という生徒の気持ちに応えたくて、持ち出しでも仕方ないと思うようにしました」

※1 休日に部活動の指導をする場合、部活動手当が支払われるが、自治体によって金額は異なる。文部科学省は4時間程度の手当を3600円に引き上げているが、自治体で実施するには都道府県条例の改正が必要なため、実質的な金額は自治体に委ねられている。

平日は18時過ぎまで部活があり、そこから授業準備や教材作成で毎日20時過ぎまで残業。自宅に仕事を持ち帰る日も多く、さらに朝も気が抜けなかった。

「朝の電話番です。当番制の学校もあると聞きますが、私の赴任校ではありませんでした。『若いんだから早く来て当然』という雰囲気でしたし、電話が鳴ると周囲の先生がこちらを見て『なぜ出ないの?』という顔をするんです」

悩みを相談できる相手がいればまた違っただろうが、新卒教員は鳴海さんのみ。コロナ禍で食事会などもなく、鳴海さんは孤立した。結果として精神的負担だけでなく、ノウハウ共有の機会も乏しくなり、特別支援学級でその弊害が顕在化した。

十分な指導もなく叱責され、適応障害を発症し退職へ

「特別支援学級での指導はやりがいがありました。生徒の心のきれいさが感じられましたし、しっかりと伝えればわかってくれるからです。でも、一緒に担当している先生方から見ると、私の至らない部分が目立ったのでしょう。『君のやり方はまずい』『生徒をちゃんと見ていない』といった指摘をたくさん受けました」

鳴海さんは指摘をひとつひとつ真摯に受け止め、改善しようと努めたがなかなかうまくいかなかったと言う。特別支援教育の基礎を学んでおらず、十分な研修も受けていないため、「わからないところがわからない」状態だったのだ。

「『ちゃんと見ていない』と言われても、どこを見ればいいのかわからないんです。それを先生方に聞くと、『自分で考えて』と突き放されるんですね。人のフォローをしている余裕がないのは理解できるので、仕方がないのですが、そうすると聞きづらくなってしまいます」

こうして、指摘されてもうまく改善できず、新たなミスを誘発する負のスパイラルとなり、鳴海さんには「使えない」というレッテルが貼られてしまった。「力を認めていない先生のことを、〜君、〜さんと呼ぶ先生もいた」中で、鳴海さんの居場所はなくなっていった。

「2年目に入ってすぐ、一緒に特別支援学級を担当していた先生から『お前使えないんだよ、どれだけフォローしていると思っているんだ』と激しく叱責されました。その頃には、ほかの先生方ともほとんど口をきかない状態だったこともあり、『もう教員を続けるのは無理』と心が折れてしまったんです」

とはいえ、生活を考えると簡単に辞めるわけにはいかない。日々の仕事は山積みで、負のスパイラルも変わらない。鳴海さんは適応障害を発症してしまった。

「精神科を受診する少し前から、『死にたい』という思いが出てきました。頭の中で、高いところから飛び降りたり、首を吊ったりというイメージが強くなって……。通勤中は動悸が激しくなり本当にしんどかったです」

医師に休職を勧められ診断書を提出すると、教頭から「なぜ休むんだ。手順があるだろう」と咎められた。そのプレッシャーもあり、通常3~6カ月が望ましいとされる休職期間は1カ月で切り上げた。もう限界だった。「このままでは命を落とす」と年度末での退職を決意。結局、有給休暇は消化できず、最終日は「辞めるなら引き継ぎ資料はちゃんと作ってよね」と声をかけられ、最後は見送りもなく帰った。

子どもを指導する教員が「人に優しくない」ことに疑問

鳴海さんは「子どもを指導するはずの教員が、なぜ人に優しくないのだろう」と疑問を投げかける。

「若い世代を小馬鹿にする先生も多いですし、同僚の先生の悪口や噂話でギスギスした雰囲気になっていても、みんな見て見ぬふり。とくに管理職は保護者の肩は持つのに同僚に冷たい人が多かった。気遣いができないのに、よく教員をやっていられるなと感じてしまいました」

おそらくは、「できない人」の気持ちがわからないのかもしれない、と鳴海さんは続ける。

「赴任校では不登校の生徒が比較的多かったのですが、ふと『不登校の子は教員にはならないんだろうなあ』と考えました。裏を返すと、教員になるのは学校が楽しくて、『できる』のが当たり前だった人なのかもしれません」

実際、鳴海さんの仕事ぶりには問題があったのかもしれない。しかし、それを排除するのは教員としてあるべき姿なのか。むしろ、個々人の本来の能力を出せるように支援をするのが教員なのではないか。「なぜできないんだ」と強い言葉で萎縮させるのではなく、「一緒に考えよう」と引き上げるアプローチが必要だったのではないか。

「経験もスキルもない新人が入ってきて困るのは理解できます。自分たちも目の前の仕事に追われているのに、新人のフォローをする余裕はありませんよね。するとやはり、新人が初日から生徒や保護者と向き合う現状がおかしいのだと思うんです」

いくら教育実習を受けていても、赴任校の状況や任される業務の内容によって対応は異なる。鳴海さんが特別支援学級を任されたように、突然新しい仕事を振られるケースもあるだろう。初日からいきなりプロとしての結果を求めるのは無理がある。「短期間でもいいので、研修を受けたかった」という鳴海さんの言葉が重く響く。

「正当な待遇が受けられない点も問題だと思います。月に100時間以上残業しているのに、8000円程度しかもらえない※2のでは割に合いません。民間企業に勤めて『年収800万円を超えた』という同級生の話を聞いたときは、正直、自分の仕事がバカバカしく思えました」

※2 公立学校の教職員の給与や労働条件を定めた給特法により、原則的に時間外勤務手当や休日手当は支給されない。代わりに、月額給与の4%相当が「教職調整額」として支給される。

すぐに給与を引き上げられるわけではないが、「せめて人としての優しさを持って、新卒でも思いや専門性を尊重してほしい。やりたくない仕事や、学んでもいない領域を任せるのは、生徒にとっても不幸でしょう」と鳴海さんは訴える。

現在は別の仕事に就いている鳴海さんだが、「戻れるなら戻りたい。教員は子どもたちと一緒に成長できる素晴らしい仕事だから」と語る。教員不足が深刻化している今、こうした若者の熱意が生かされていない現実をどう受け止めるかが問われている。

(文:高橋秀和、写真:beauty-box / PIXTA)

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