「自分で学びを選び深める力」を身に付けられるように
五十棲浩二氏は東京大学法学部を卒業後、2001年に経産省に入省した。資源エネルギー庁、内閣府、環境省などを経て、14年からは中高一貫校の私立聖光学院中学校高等学校(神奈川県横浜市)に勤務。校長補佐としてキャリア教育や国際化を推進するほか、特別教員免許を取得して英語や現代社会の授業も担当した。また、現在室長を務める教育産業室や、不登校の生徒を支援する神奈川私学修学支援センターの立ち上げにも関わるなど、教育分野に長く携わってきた異色の経産官僚だ。
「入省後に米国の大学院に2年間留学させていただいたとき、こんな学び方があるのかと大きな刺激を受けました。日本の教育にも優れた点は多く、米国の教育がすべてよいということではありませんが、海外の学びの優れた部分は日本にも取り入れられるのではと考えました。また、NPOで高校生や大学生の就業体験などをお手伝いしてきたこともあり、そういった意味では、教育に対する関心は高かったのではないかと思います」
通算約7年間勤務した聖光学院は五十棲氏の母校でもある。「授業や生徒への接し方は先生方に学ぶことばかりで、私は主に学校と外をつなぐ役割を担ってきました」と、五十棲氏。校長補佐としてICTの活用やスーパーサイエンススクールの立ち上げ、シリコンバレーなどへの海外研修、他校と共同で行うプログラミングキャンプなど、さまざまなプロジェクトに携わってきた。
とくに中高一貫校は、人間関係も固定的になりがちだ。外部の生徒との交流は大きな刺激になると考え、発表会なども含めて他校とのイベントには力を入れた。シリコンバレー研修では自主性を育もうと、一部の企業や大学には生徒たちにアポ入れをさせるようにした。「メールやSNSなどICTツールをうまく使えばいろんな人に会えることや、自分のテーマを持つことの大切さを実感してもらえたと思います」と、五十棲氏は振り返る。
こうした現場体験を通して、五十棲氏はこの国のさまざまな教育課題が見えてきたという。
「日本の学校の先生は、『よい授業やプログラムを提供したい』という愛が強く本当にすばらしい。しかしそのことで、生徒が与えられることを待ってしまう傾向もあるのかなと自戒も込めて思います。人は成長とともに、自分で選び、自分で何かをしていくことが必要になります。とくに高校はその橋渡しの期間であり、自分のやりたいことや学びを選んで深めていくフェーズ。先生は勇気を持ってある程度手放しつつ、見守っていくことも必要ではないでしょうか。子どもたちが自分で選ぶ力を身に付け、選んだことに責任を取ることができるようになっていくといいなと考えています」
例えば、学校は公平性の観点から全員に同じプログラムを提供しがちだ。しかしそれだけではなく、「各生徒が興味あるものを選び取って深めていくトレーニングの場もつくることが、自律した個人の育成につながっていくのではないか」と五十棲氏は語る。
実際、五十棲氏は聖光学院で、生徒自身が手を挙げてチャレンジできるよう、外部のさまざまなプログラムを生徒たちに紹介してきた。その結果、それぞれが自主的に参加して受けた外の刺激を学校に持ち帰り、生徒同士でまた学びを深めていくような姿が見られたという。
また、もう1つの教育課題として、公立校と私立校の格差について指摘する。
「私立校は学校外の学びの機会を活用する点で比較的柔軟に対応するケースが多いですが、私は公立校でこそ、児童生徒たちに外部の力も活用した多様な学びの機会をつくってあげたいと思っています。誰もが家庭や経済のバックグラウンドから離れて、それぞれの個性が生きるような学び方ができるようになってほしい。今後、公立校でも柔軟な取り組みができるように、われわれ教育産業室としても後押しをしていきたいと考えています」
「文科省と一緒に進めるプロジェクトがあってもいい」
経産省教育産業室では1人1台端末の本格活用を見据え、コロナ禍前の2018年から「未来の教室」実証事業を推進してきた。「学びのSTEAM化」「学びの自律化・個別最適化」「新しい学習基盤づくり」という3つの柱を中心に展開してきたが、スタートから5年ほどが経過した今、これまでの取り組みをどのように評価しているのだろうか。
「コロナ禍を機に1人1台端末の体制がほぼ出来上がりましたが、公教育の場でこれだけ急速にICT化に対応できた国は世界的に見ても少ないです。コロナ禍前からICT活用の議論を始めていた『未来の教室』は、学校の景色を一変させた端緒をつくった事業だったと思います。また、『未来の教室』では既存の学びだけでなく新たな学びを提案してきましたが、文部科学省、教育委員会、民間事業者、NPOなども巻き込んだ大きなムーブメントになってきていることからも意義のある取り組みだと考えています」
23年度以降は、児童生徒の自律や探究をもう一段深めていくような実証事業を進めつつ、未来の学びを実現している学校の事例を具体的に示していくことが課題だという。
「教育において理念はもちろん重要ですが、一方で理念を議論しているとなかなか進まないところがあるので、できることから事例を具体的に示すことでみんなが議論しやすい環境を整えたい。カリキュラムも含めて、ICT活用や学びの選択、自主的な学び、探究的な学びなどを実現している学校を紹介し、ほかの教育委員会や学校が自分たちもやりたいと思えるような事例が出てくれば、次のフェーズに進めると思っています」
そのためにも、未来の学びについて「ビジョンを議論する段階から、実行の段階に移したい」と五十棲氏は話す。新たな教育を展開するには規制を変えるのか、ガイドラインを作るのか、それとも既存の規制の中で柔軟に対応できるのかといった具体策を議論し、地道に実現していく必要があるという。
「教育産業室は8人中5人が文科省や教育委員会からの出向者で、いわば汽水域のような場所。実証で出てきた課題について私たちなりに関係者とも1つひとつ話し合い、文科省や教育委員会、学校とも議論して実行に移していきたいと考えています」
五十棲氏は、まだ具体的な取り組みは議論中だとしたうえで、文科省との連携についても積極的に進めていきたいと述べる。
「両省が一緒に進めるプロジェクトがあってもいいと思っています。よく『なぜ経産省が教育に関わるのか』と聞かれますが、『なぜ経産省は教育に関わらないのか』と言われるくらいがあるべき姿だと考えています。さらに言えば、他省もなぜ教育に関わらないのかと。教育は本来、国全体の話です。お互いが批判するのではなく、知恵を持ち寄り、共に教育や子育て、人材育成をどうよくしていくかという視点で前向きに議論することが大事ではないでしょうか。現場でも、先生や児童生徒、そのご家族はもちろん、地域の企業や住民の皆さんが共に学校をつくっていくことが大切だと考えています」
多様な学び方を組み合わせられる「ビュッフェ的な学び」へ
教育のICT化が急速に進み、民間企業やNPOでもこれまでにないビジネスや支援ができるようになった。現在、慶応大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程で教育経済学を研究中の五十棲氏も、独学の際にさまざまなEdTechサービスに助けられているという。小学生のわが子がタブレット端末で好きなものを調べている姿を見ていても、細かな学びのニーズに対応するには民間の力が重要だと感じており、「これからもいろいろな事業者さんに学びのイノベーションを起こしていただきたい」と語る。
「未来の教室」の正式名称は「学びと社会の連携促進事業」だ。五十棲氏自身、母校で学びと社会をつなげ、子どもたちに多くの選択肢を用意することを意識してきたが、教育室産業室長としても「柔軟な学びの形」をつくるイノベーションに力を入れる考えだ。例えば、高校の教育に関しては単位制の活用に言及する。
「高校においては、卒業に必要な単位のうち、他校や大学、高専、あるいはボランティアや就業体験も単位として組み込むことを文科省が認めています。今後はこの仕組みを活用し、1つの学校ですべてを賄うのではなく、学校の内外に関係なくさまざまな学び方を組み合わせられる学びの形をつくっていけたらと思います。個別のニーズに対応しにくい少子化が進む地域の課題解決にもなるでしょうし、都市や地方を問わず、生徒が自分で学びを選び取ってデザインするという主体性にもつながっていくでしょう。生徒たちが外で受ける刺激を持ち帰ってくることが、学校全体のエネルギーの活性化にもつながると考えています」
また、神奈川県私学修学支援センターの立ち上げに関わり、2020年の開所から1年ほど週1回は現場に通って不登校の生徒たちと触れ合ってきた五十棲氏。文科省の全国調査では、不登校の小中学生は過去最多の約24万人といわれているが、「看過できない問題」だとし、「不登校の子も含めて児童生徒が生き生きと学べる環境を、テクノロジーや民間の力を活用しながらどう整えていくか。ここもしっかり取り組みたい」と話す。
すでに「未来の教室」では認定NPO法人カタリバのオンライン不登校支援プログラム「room-K」を通じた実証事業などを行っているが、「学校が柔軟さを持つことで生徒も学びを継続しやすくなるはず」と言い、こう続ける。
「校内のSSR(スペシャルサポートルーム)や不登校特例校など文科省も柔軟な取り組みに力を入れていますが、子どもによっては専門家によるオンラインでのケアが効果的な場合もあるでしょう。また、オンラインのほうが知見を蓄積・共有しやすいという利点もあります。不登校は何か1つの対応で解決するものではなく、複層的に取り組まなければいけないことだと考えています」
教員の働き方改革を進めるためにも、学校や地域、民間を含めた複合的な視点が必要だと語る。
「働き方改革においても、学校の中だけで完結するのではなく、外の力も柔軟に活用しながら、児童生徒が選んで組み合わせることができるビュッフェ的な学びに変えていく発想転換が必要だと思います。教員の役割はキュレーターやコーチに変わり、発達段階に応じて学びの選択をサポートしていく。また部活も、どんなご家庭のお子さんにも好きなことを追求できる機会を提供してきたという重要な機能をどう維持していくか、社会全体で考えることが大切です。それが結果として、教員の働きやすい環境につながっていくのではないかと考えています」
(文:國貞文隆、撮影:今井康一)