全国大会を主導する「中体連」がたどった意外な変遷
多くの日本人にとって、身近で当たり前の存在である部活動。だがその捉え方は、各々の過ごした時代や立場によって異なるだろう。早稲田大学スポーツ科学学術院 スポーツ科学部で教授を務める中澤篤史氏は、そうした人たちの間に共通理解をもたらしたいという思いで研究を続けている。
中澤氏はそもそも、日本の部活動は世界的に見て非常に特殊なものだと語る。
「学校が中心になって、これほど多くの生徒を参加させている部活動は海外にはありません。戦前はやりたい学生が集まって行う非常に緩やかなものでしたが、部活動は戦後民主主義教育の理想を担うものに変化していきました」
戦時中に求めた「従順さ」ではなく、戦後の社会は子どもたちに「自主性」を望んだ。そのため、部活動はカリキュラム外で「自主的」に、また、多くの生徒に対し平等に行われるものとして広がっていく。やがて1980年代ごろから校内暴力が問題になると、部活動は非行生徒の更生に活用されるようになり、「自主的」であることを理由に指導も過熱化していった。
中学校の運動部を語るとき、「中体連(日本中学校体育連盟)」のことを思う人も多いだろう。国内の中学校のスポーツを統括し、「全中(全国中学校体育大会)」を主催する団体だ。この全国大会こそが部活動の過熱化・肥大化を招いているという声も聞かれる。だが中澤氏の研究によると、中体連はその肥大化を抑えるためにこそ設立されたのだという。詳しくは同氏の論文「全国中学校体育大会の成立過程」(『体育学研究』67)※に譲るが、簡単に言えば中体連の目的は「ほかの団体の管理による教育からの逸脱を避けるため、自らがスポーツを抑制し管理すること」だったということだ。
「調査によって、中体連は当初、部活動が勝利至上主義に走ったり教育的平等主義を見失ったりすることを危惧し、全国大会を制限しようとしていたことがわかりました。自らを『全国大会をいたずらに過熱化させない防波堤』と表現している資料もあります」
だが外的な圧力や五輪などの熱狂にも影響され、中体連のあり方は長い時間をかけて変わってきた。中澤氏は「こんな結論を伝えて大丈夫かな」と一抹の不安を抱きつつ、研究結果を同団体に報告した。すると理事からは、予想外のリアクションがあったという。
「先方から『感動しました。現在の中体連内部の先生方は、こうした経緯を知らないのです』と言われてうれしかったですね。部活動は多くの問題が指摘されており、このままでいいと思っている人は中体連にもいません。研究を深めることで複雑化した部活動の過去をひもとき、さまざま立場の人のコミュニケーションの懸け橋になれたらと考えています」
中澤氏は自身の研究結果を踏まえ、「子どものスポーツを管理する団体」の存在意義も実感した。
「新興の競技では中体連の管理下にないものもあり、そうした部活動では練習時間が長かったり大会日程が授業を妨げたりという問題点も見られます。適切な取り組み方かどうか、良識ある大人が見てあげるのは必要なことだと思います」
質問の多いアスリート、「特異化」されてきたアスリート
一流のアスリートでも、自身を「同世代のナンバーワンではなかった」と言うケースは多い。それは自分の上にいたナンバーワンが、ケガで競技をやめてしまったことを意味している。
「幼い頃からスポーツに人生のすべてを懸けることは、とてもリスクの高いことだと思います。私の教え子でもスポーツ推薦で入学した学生は多いですが、一般的には学力のほうが将来を生き抜くための資源になるということも伝えるようにしています」
そうしたいわば「スポーツ優等生」の学生の振る舞いで、中澤氏には気になることがある。
「アスリート型の学生は、教員にとても多くの質問をする傾向があると感じます。それはまるで『方法を教えてくれたらボクは走れる』とでも思っているかのようです」
質問攻めの理由が、それまでの学校スポーツの中で「自ら考える力」を伸ばしてこなかったことにあるとすれば、それは戦後の部活動が理想に掲げた「自主性」と矛盾するのではないか。気になることはほかにもある。
「インカレを制した学生が、それを私のところに報告に来てくれたとしましょう。もちろんそれはすごいね、よかったねと褒めます。でも例えば、音楽をやっている学生が今まで弾けなかった曲が弾けたとか、家族とうまくいっていない子が勇気を出して親と話せたとか、各々が達成の喜びを感じることには等しく価値がある。だから私は等しく褒めますが、スポーツに打ち込んできた学生は『えっ?もっと褒めてくれないの?』という反応をすることがあります。例に挙げたようなことより、スポーツの結果のほうが価値があると思っているからだと思います」
中澤氏は、このようにスポーツに熱中する子どもや若者を「一般社会と切り離して特異化させてはいけない」と語る。実際に、閉ざされた部活動で特異化されてしまった学生は、一般学生との間に溝をつくることも多いという。
「部活動は人生全体の一部であることを忘れてはいけないし、そうでなければやがて実社会からはみ出してしまう。大学教員としての私のミッションは、特異化されてきた学生とそうでない学生を意図的に交ぜ合わせ、互いに学び合う関係をつくることですね」
お膳立てされなくてもやりたいと思うことが「自主性」
部活動はあって当たり前のものだったために、保護者も生徒もそこに多くを求めがちだ。中澤氏はこれからの部活動では、その高まりすぎた期待値を下げることが必要だと語る。
「子どもの『やりたい』という言葉にはもちろん真摯に向き合うべきですが、他方で、子ども自身もよくわからないまま口にすることもありますから、素朴に信じればいいというわけでもない。眉唾ものくらいに受け止めて、少しぐらい突き放してもいい局面もあるでしょう。それでも生徒が本当にやりたいなら、練習メニューやスケジュールも自分たちで決めればいいし、それができないならやらなくていいのです。すべてやってあげなければ教師失格のように思っている先生もいますが、そんなことはありません」
大学での例だが、中澤氏のゼミではこんなことがあった。中澤氏が学生たちに「今年のゼミ合宿はどうする?」と聞いたところ、学生たちは一様に面倒がって消極的な態度を見せた。そこで中澤氏が「じゃあやらなくていいね、やめよう」と言うと、一転して「やりたい」という空気になり、学生たちはじゃんけんをして幹事を決めるなど、具体的な話し合いを始めたという。
「お膳立てをするのではなく、『やらない』にベースラインを置くとやりたくなるものなんですよね」と中澤氏は笑う。それこそが自主性の表れであり、「やりたいことを自由に選んで実行する」という自己決定の練習にもなる。このスキルは人生で求められる重要な力だと同氏は言う。また、本当に自由で自主的な取り組みであれば、子どもは取り組みを通じて「相手にも相手の自由がある」と学ぶことになる。部活動で言えば、生徒の自由がある一方で、教師の自由もあるはずだ。それは例えば、「部活動の指導よりも授業の準備に集中したい」とか「これ以上は頑張れない、休ませてほしい」という顧問教師たちの気持ちだ。もし生徒がそうした教師の気持ちも受け止め、対等な立場で部活動のあり方を議論し交渉し、合意に向かう経験ができたなら、それは生徒にとって大きな学びになるだろう。
生徒にも教師にも自由があるように、部活動改革のあり方もそれぞれの自由があっていいと中澤氏は考える。
「ある講演会で、元教員の方から『どうしたらいいかマニュアルを作ってほしい』と言われたことがあります。現場はそこまで追い詰められているんだと痛感しましたが、一律のマニュアルを作って強制したら、今の苦しい状況と同じことになってしまいます」
肥大化した部活動は大きな社会問題になり、多くの人がこのままではいけないと関心を持った。それにより、ここ数年で徐々に改革が進んできたと中澤氏はみている。
「休日が増えたり活動時間が減ったりという流れは確実に進んでおり、すでに変化を感じていた教師も多かったはず。そうした動きを止めずに、改革をさらに進めていくことが大事です。地域移行も一つの手ですが、それだけに絞ると逆に窮屈になり、現場が混乱するだけに終わるかもしれない。部活動そのものをダウンサイジングしていくこと、学校間で連携して合同部活動や拠点校方式を展開していくこともあっていい。一択である必要はなく、地域の事情に応じた改革を進めるべきだと考えます」
部活動改革ではさまざまな取り組みが行われているが、なかなかうまくいかないのも事実だ。00年代には総合型地域スポーツクラブへの移行が失敗に終わったが、それを阻んだ一大勢力は、子どもを学校に預けておきたいと考える保護者だった。だが中澤氏は、今は保護者も当時ほど一枚岩ではないと説明する。
「そこまで部活をやらなくていいとか、受験を見据えて勉強させたいとか、保護者の考え方も多様化しています。現状の部活動のあり方に疑問を持つ保護者が一定数いることは、部活動改革にポジティブに働くでしょう」
保護者の中にも異なる自由があるというわけだ。
関係する人が多くその立場もさまざまで、長きにわたってあまりに複雑化してしまった部活動。大きな転換点を迎えている今、研究者のフラットな視点で解きほぐすことも、改革のための大きな力になるだろう。
(文:鈴木絢子、撮影:今井康一)