教職員を悩ませる「金髪で授業」問題に決着

近鉄奈良駅から徒歩20分、東大寺を望む多聞城の跡地にある奈良市立若草中学校。同校の教職員の間で、ある議論がそれまで以上に活発に交わされるようになったのは2018年のことだった。

その議論とは、「子どもの基本的人権を尊重する教育とは何か」というものだ。若草中学校教職員の間で伝統的に議論されてきたテーマだが、生徒指導のあり方を見つめ直す中で、改めて注目が集まった。同年、若草中に着任した栗山泰幸氏はこう話す。

栗山泰幸(くりやま・ひろゆき)
奈良市立若草中学校 生徒指導主事

「以前から、関西の地方都市の生徒指導では、茶髪や金髪の生徒を卒業式などの式典や行事などに参加させていいのか、という議論がなされていました。服装や髪型によっては、その生徒をいったん帰らせるという学校もあります。しかし、私やほかの教職員も『髪型や服装はそんなに大事なのか?』という疑問を常々持っていました。一方で、1つ許すとずるずると何でも自由になってしまう懸念もあります。しかし、教職員によって基準や考え方もさまざま。そこで、教職員同士がいろんな意見や考えを出し合って見直しませんか、ということになったんです」

こうして、職員室のあちこちで、活発な議論が起こるようになったという。それを可能にした要因は2つある。1つは、同校が伝統的に人権教育に力を入れてきたこと。もう1つは、教職員の平均年齢が低く、固定観念にとらわれず、シンプルに疑問を出し合えたことだ。

もちろん、「中学生がピアスをする必要はない」という意見もあるが、栗山氏は「いろんな意見があっていい。大切なのは、教職員同士がいろんな思いを話し合うこと」と語る。そうして教職員の間で議論を重ねるうちに、1つの着地点が見えた。「生徒の教育を受ける権利を奪ってはいけない」ということだ。

「教育を受ける権利は憲法で保障されている。派手な髪やピアスをしている生徒がいたら、まずは教員が声をかければいい。髪色や装飾具を理由に、式典や行事、教室に入れるかどうかという議論はやめようということになったのです。すごくスッキリしましたね」

それが19年のことだ。栗山氏が同校の生徒指導主事に任命された年だった。20年には、靴下の色など古典的で細かい校則による生徒指導を廃止した。

「生徒指導には、教員の力量が問われます。生徒とうまくコミュニケーションが取れていたり、授業者として信頼や尊敬をされていたりすれば、生徒は素直に話を聞いてくれますし、信用されていなければ聞いてくれません。だからこそ、教員は逃げずに生徒と向き合い、指導することが求められるのです」

逆に、生徒と信頼関係をつくるために「お友達先生」になってしまう先生も中にはいる。子どもたちの都合や気分に流されて安易に迎合してしまう先生だ。生徒ともめることがなく、ある意味、楽で人気者になってしまうことすらある。

だが若草中では「いいことはいい! おかしいことはおかしい!」と、「当たり前のことを当たり前に伝え続ける姿勢をみんなでもう一度大切にしていこう」と教職員同士で話し合ってきたという。校則を守ることが教育の最終目標ではなく、生徒と向き合い、生徒の教育を受ける権利を守ること。教職員の間にある共通認識が、そうした指導を支えている。

校則廃止後に、みんなで考えた教室マナー

若草中では、細かい校則が書かれていた生徒手帳も廃止した。

「生徒手帳は1冊約500円です。生徒たちが読んでいると思えないのに、買ってもらう必要があるのかなと。一部には『わざわざなくす必要はあるのか?』という意見もありましたが、廃止に対する抗議はゼロでした。学割などを受けるために、生徒手帳の代わりにカードタイプの生徒証明を発行していますので、何の問題も起きていません。子ども主体の学校づくりをしよう。子どもたちの自尊感情と主体性を向上させようというところがいちばんの目標なので、教務部の了解もすぐに得られ、対応はとてもスムーズでした」

さらに、自転車通学の規定変更や性別によらない制服選択なども実現。1年生を中心に、自由に制服を着こなしているという。注目すべきは、こうした校則の見直しは、教職員と生徒が一緒に進めてきたこと。同校では各学級で出た意見を学年ごとに集約し、それを学校全体のテーマとして吸い上げるシステムになっている。

「生徒会と各委員会の代表が意見を集め、生徒指導主事の私と生徒会担当教員の2人が職員会の代表として教職員の意見を取りまとめたうえで、生徒会と職員会で議論を繰り返し、最終的に生徒総会で議決します。その決定を教職員がバックアップするという形です」

生徒会と職員会は対等な議論を行うが、生徒総会の決定が尊重されるため、生徒側の提案を実現する際のリスクは総会前に十分に議論・検討する。その際も、生徒会と職員会は対等な立場で議論を行うという。

生徒会と職員会の議論の様子。コロナ禍ということもあり、現在はオンラインも使いながら実施されている。生徒会と職員会は対等な議論を行うが、生徒総会の決定が尊重されるという

昔ながらの校則が廃止されたとはいえ、集団行動には指針も必要だ。また、校区の小学校から「校則がない中学校生活について小学生にどう教えればいいか」という問い合わせもあった。そこで、生徒と教職員で1日の流れを見直す「若中生の一日検討委員会」を設置、学校生活の約束事(1日の流れ)をまとめた。身だしなみや欠席の連絡、教室の移動など、学校生活の1日の中で何に注意して過ごせばいいか書かれている。

「これは『学校生活の共通マナー』のようなもので、守らなかったからといって罰則があるわけではありません。気づいたことがあれば、その都度話し合えばいい。今は、カーディガンの着用について話し合っています。私なりに校則の歴史について調べたら、校則は、もともと生徒会会則として誕生したようです。本来は生徒や教職員、保護者や地域の人々の間の共通認識・共通マナーとして誕生したものが、いつの間にか『学校に押し付けられるもの』として認識され、固定観念となったのではないでしょうか」

「いいことを伝える」美点凝視で生徒に変化

しかし、中学生が教職員と対等に議論を行うには、それなりの力量が必要だ。自分で考える力やそれを言葉にまとめて伝える力、相手の主張を理解する力を総合的に使いこなす力が求められる。若草中に、そうした力を養うための取り組みがあることが注目すべきところだ。

1つ目は、いわゆる「青年の主張」だ。各学級、各学年で選ばれた代表が自分の訴えを学校全体に向けて主張する。これを伝統的に実施しており、自分の言葉で伝えるという積み重ねが行われてきた。2つ目は授業のあり方だ。

「若草中では、私が赴任するずっと前から『人権教育を学校の柱にしていながら、教員ばかりがしゃべる教師主体の授業でいいのか?』が教職員の間で議論されてきました。そこに新学習指導要領で『主体的・対話的で深い学び(いわゆるアクティブ・ラーニング)』の実現が求められるようになり、これまで以上に生徒にスポットライトを当てる時間を増やし、自分の思いをアウトプットする力を高めようという機運が高まったのです。

教務主任や学習部長が、熱心に職員研修や研究授業を計画したおかげで、教科の枠組みを超えて、教員同士が授業の腕を高め合う風土が学校全体に広まりました。管理職の教員も、授業の様子を毎日のように見に行き、その都度子どもたちや教員の頑張りを認め、前向きな助言をしています」

今では、ほぼすべての授業で「Quizlet」や「Kahoot!」などの学習クイズソフトで知識理解の徹底を図るとともに、Google Classroomやロイロノートで意見の共有やプレゼンテーションをするといったICTを適切に活用した確かな学力の育成にも取り組んでいるという。

そして3つ目は美点凝視だ。美点凝視とは、生徒のいいところ、見習うべき姿勢をポジティブな言葉で伝えていこうというもの。

「私は自分の研究実践の中で『ほめ言葉のシャワー』(日本標準)で知られる菊池省三さんに出会い、影響を受けました。しかし、菊池さんのような達人のごとく、授業中に子どもたちを褒めて認めて、感謝するということをすべてやりきるということは、私にとってはまだまだ難しいものです。そこで菊池さんの下で学ぶ中で出会った、大分県教育庁別府教育事務所所長である山香昭さんの実践をアレンジし、生徒たちの学校生活の様子を記録に取り、その言動の価値や子どもたち一人ひとりの存在のありがたさを伝える『美点凝視』の掲示物を学校にあふれさせようと考えました」

生徒のいいところ、見習うべき姿勢をポジティブな言葉で伝える「美点凝視」の掲示

最初は栗山氏が一人で始めた取り組みだったが、しだいにほかの教職員や生徒の間にも広がっていった。今では生活環境委員会の活動として、教職員や生徒同士が見つけた生徒のよさをポスターにして貼り出しているという。

「美点凝視を続けるうちに生徒の自尊感情も少しずつ上がってきているように見えますし、何より生徒が楽しみにしていて。月に一度ポスターが貼り出されると、生徒が集まってきて熱心に見ているんですよ。始めの頃は、私がたった一人で写真撮影をし、褒め言葉のメッセージを書き、掲示していましたが、今では生徒たちがそれぞれ各学級や委員会でタブレットを駆使して作成、掲示までしてくれています。多聞城跡と呼ばれるこの地を、いつか美点凝視であふれる『美点城』と呼ばれるようにしたい! 生徒たちとそんなふうに話しています」

この取り組みは、生徒が自分の気持ちを言葉にすることにもつながると栗山氏は考える。現代の子どもの中には、SNSやプライベートスペースでは別人のようにコミュニケーションが取れるのに、パブリックではなかなかできないという子がいる。ただ、そういう子も「SNSの中だけでずっとハッピー!」ということはないと栗山氏は話す。

「ほとんど多くの生徒が、周りの人との人間関係や家族関係の中でしんどさを感じています。いくらスマホやSNSなどの情報機器が発達しようとも、子どもたちは気の許せる友達が欲しい、自分のことを家族に認めてもらいたい、褒めてもらいたいといった生身の温かい人間関係を求めていることに違いはありません。子どもも大人も、結局は生身の人と誤解なく、笑顔で関わっていきたいと心の底では願っているように感じるのです」

また、この取り組みと併せて、生徒指導部からのお便りや集会で生徒に伝える話のあり方も見直した。生徒指導部からの話というと、どうしても注意や説教というイメージが強いが、生徒のよさや努力に目を向け、生徒同士で対話して互いに褒めて、認めて、感謝する場に変えていったのだ。

生徒指導の働きが、「問題行動への注意や叱責、保護者・地域住民からのクレーム対応」といった消極的で部分的なものから、より明るく積極的で、全体的なものになったのは、当事者全員が「いいことはいい! おかしいことはおかしい!」という当たり前のことを、当たり前に続けてきたからだと栗山氏は話す。

生徒も教職員も安心して発言できる環境を

今は、「リンゴが好きか、バナナが好きか」で世の中のあちこちでいさかいが起こる世の中だと栗山氏は指摘する。大人も子どもも毎日のように、互いの違いや欠点、失敗を認めずに非難し合っている。コロナ禍の中で、大人たちも心の余裕を失い、地域の子どもたちや学校を見る目にも、よりいっそうぬくもりが感じづらくなってきた。

「人それぞれ、好みや考えが違うのは当たり前のこと。その違いを尊重し合って、物事を進めていく手続きこそ平和で民主的なプロセスだったはずです。大切なのは、自分と違う考えの相手と尊重し合って話し合っていけるかどうか。生徒には、自分を守るために相手を否定や中傷する必要はないこと、人間関係は『違いや対立があってこそすばらしい』ということを知ってほしいのです。そのためにも、自分の意見を安心して言える土台や環境をつくりたいと考えています」

だからこそ、保護者や地域住民などの大人も、自分の好みや考えだけを子どもたちや教職員、学校に押し付けず、対等な立場で民主的に対話ができる関係性を大切にしてほしいという。大人が、相手を尊重し合って話し合ったり、考えの違いをもとに不毛な争いをせずに譲り合ったりできる姿が、子どもたちにとって最も豊かな教育環境になると考えているからだ。

校則を見直し、新たな約束事を話し合ったことは、まさにその表れだろう。同校の取り組みが目指したのは、単に古い校則を廃止するということではない。教職員と生徒が気持ちや考えを自分の言葉で話し、互いに尊重し合うそのプロセスに価値があるのだ。

生徒総会の様子。「毎年この集会から校則が変わったり、学校の環境が改善されたりしていて、まさに自分たちが学校を動かしていると感じるような活動の1つ」と生徒は話す。生徒会執行部の生徒は「問題を深掘りすることの大切さ」を挙げ、「最初はメリットしか見えないが、いざそれについて深く話し合うようになると、いろいろなデメリットが見えるようになり、建設的な議論ができる」と話す

今の課題は、こうした取り組みが「生徒会役員がやっていること」を「他人事」と感じてしまう生徒もいること。生徒会もその点は意識しており、自分たちが学校をつくることの意味を積極的に広報しているという。

「生徒たちには『自分事』として考えてもらい、それを自信にしていってもらいたいですね。本校の取り組みは、決して派手なものでも、突発的なトップダウンでなされたものでもありません。卒業生や先輩教職員が守り続けてきた『子どもの基本的人権を尊重する教育』の先に、新たな議論や対話を地道に積み重ねてできたものです。生徒も教職員も、一人ひとりが学校生活の主人公として自分の思いを真っすぐに伝え合う中で、喜びや苦しみを共有しながら地道に前に進んできました。しかし、それでも学校は大きく前に進む、明るく前向きに変われることがある!と自信が持てました」

こう栗山氏が話すのには理由がある。学校現場の閉塞感だ。今もコロナ禍で苦労や悩みを抱える教職員は多いが、以前から学校現場は明るい話題が少なかった。教員採用試験の倍率低下は、その象徴だ。新しい教育が次々と導入される中で組織の連携や体制の強化が求められる一方、「教職員一人ひとりの個性や感性が認められず、教育や子どもたちに対するそれぞれの思いを発信しづらい世の中になった気がしてならない」(栗山氏)と言う。だからこそ、地方の公立中学という若草中の取り組みを知ってほしいと。

学校や教育に対する思いを一人ひとりが当事者として積極的に発信することが、新しい学校づくりや教育が生まれる原動力になるということだろう。「私立だからできた」「都会の学校だからできた」「あの先生がいたからできた」ではない。見て見ぬふりをせずに目の前のちょっとした疑問について考えてみる。そこから学校は変われるということだ。それは教職員が自信を取り戻す、諦めを希望に変える一歩なのかもしれない。

(文:吉田渓、写真:すべて栗山氏提供)