30歳でマッキンゼーを退社、デルタスタジオを設立
いわゆる学習塾や受験塾ではなく、21世紀型スキルを磨く塾。それが、東京・渋谷区広尾にあるデルタスタジオだ。デルタスタジオを立ち上げたのは、世界25カ国で出版され、国内でも販売部数が52万部を超えたベストセラー『世界一やさしい問題解決の授業』(ダイヤモンド社)の著者でもある渡辺健介さん。自身も、ビジネスパーソンとして華々しい経歴を持つ。設立当時の思いについて、こう語る。
「僕自身の話ですが、建築に興味があって、大学生の時に建築の講義を受けていたことがありました。面白そうだなと思って建築の授業を受けたり、いろいろな建築物を写真で見たり。知識として学んではいたのですが、結局、建築のすばらしさを体験できるような一歩踏み込んだきっかけには巡り合わなかったために、進路をそちらに取ることはありませんでした。父や兄が経済界にいたこともあって、イェール大学卒業後は経営コンサルティング会社マッキンゼーに入社することを選択しました」
その後、ハーバード・ビジネス・スクール留学時に、自分の人生をどのように生きたいかを考えるために、授業そっちのけでよく読んでいたのがさまざまな偉人の伝記だったという。渡辺さんは、それらの伝記を読む中で、ある一定の法則に気づいたそうだ。
「アインシュタインは4~5歳の時に父親に与えられた磁気コンパスの針がつねに北を指す不思議に驚き、宇宙の法則に興味を持ちました。ライト兄弟は父親が買ってくれたゴム付きの模型飛行機のおもちゃを分解し、組み立て直す過程で、それを大きくすることで人間が空を飛べるかもしれないと空想しています。すべて、親や周りの大人が偶然与えた物が、彼らを導き、行動を起こすきっかけになったのです。僕自身、かつてどういうものに出合えていたら、建築という世界に進みたいと思ったのだろう。子どもたちが何かを学ぶとき、ただ単に知識として学んで終わるのではなく、どういうきっかけや体験があったら世界に興味を持つのだろう。そう思いました」
その疑問は、やがて新しいプロジェクトを立ち上げる原動力となり、デルタスタジオ設立へとつながっていった。渡辺さんはこう続ける。
「すべてのイノベーションの裏には、必ず好奇心に火をつけたきっかけとなった“機会”があります。そのように好奇心や才能に火をつけられる機会を、環境や偶然の出合いに任せることなく、創出することはできないか。そういうプログラムを作って子どもたちに届けられたら、そう強く思ったんです」
そこからの動きは早かった。「教育産業に飛び込むのはまだ早いのでは?」という周囲の意見もあったが、よくありがちな、リタイア後に初めて教育に携わる形では、突き抜けたプログラムを開発し、世の中にインパクトを与えることは難しいと考えたのだ。次世代を担う子どもたちが世界に興味を持ち、“好奇心と才能に火をつけるきっかけ=点火”の瞬間、そして“たくましく人生を切り拓く力”を得るためにはどのようなプログラムを作ればいいか考え抜き、2007年、勤めていた経営コンサル会社を退社し、デルタスタジオを設立した。
「東大」大学院を出ても、学べていないことがあった
そこにジョインした、もう1人の仲間がいる。渡慶次道俊さんだ。筑波大学附属駒場中学校・高等学校から東京大学工学部に入学。東京大学大学院工学系研究科を卒業後は、ゴールドマン・サックス証券投資銀行部門に入社した。渡慶次さんは、社会に出た当時のことをこう振り返る。
「各国から集まった同僚と、ニューヨークでさまざまな研修を受けたのですが、日本人はペーパー試験では活躍できるものの、ディスカッションやプレゼンテーションになると、まったく活躍できない。海外の同期と比べると“答えのない問題”に対して、どう思考し、周りを巻き込んで解決していくか、という力が足りていなかったのですね。それには大きな戸惑いを感じました。僕自身は、日本の教育制度の中では比較的恵まれた教育を受けてきたと思います。ただ、僕が受けてきた日本の教育では、自分の頭で考えて発信する力はあまり重要視されてこなかった。実際に社会に出るとペーパー試験、いわゆる“答えのある問題”を解く力では解決できない問題のほうが多いにもかかわらず、それに対応する力が身に付いていない。教育の過程で学べなかった、その力こそ鍛える必要があるということに気づき、教育と社会のずれに大きな違和感を感じました」
渡慶次さんが感じた違和感は、日米両国の教育を体験した渡辺さんも直面している。中学2年生のとき、父親の海外赴任により米国の現地校に放り込まれ、「きみはどう思うの?」と聞かれるたびに、どう答えたらいいのかわからない戸惑いがあったという。日本人の基礎学力はOECD諸国の中でも非常に高いが、それだけではグローバルで活躍する力に直結しないのだ。
“答えのない問題”に対応する力をどのように育み、評価していくのか。それはまさに今、新学習指導要領における教育のあり方として、日本の教育現場が試行錯誤している課題でもある。
基礎学力の上にプラスしたい、才能という力
「日米両国の教育を受け、学生時代からグローバルで必要な力は何なのかをずっと考えてきました。日本人の基礎学力は、世界で見ても高いことは間違いありません。そのいわゆるペーパーテストで評価されている部分に、タレンティズムを組み込んでいく。そうすることで、グローバルで戦える力が身に付く。しかし、それは、いわゆる“ゆとり教育”につながるものでは決してありません」と渡辺さんはきっぱりと言う。
「教育のあり方や基準は違っても、どの国でも競争はとてつもなく激しいのが現実です。基礎学力が低くても才能だけ磨けばいい、というわけではもちろんありません。グローバルな世の中になっているからこそ、ビジネス界はもちろん、音楽や芸術分野、アスリートの世界であっても、競争はより熾烈になっています。その中で必要とされるためには、基礎学力に加えて、その子の特性や唯一無二の価値を引き出し伸ばしていく教育が必要です」
デルタスタジオでは、子どもたちを決して子ども扱いすることはない。つねに、率直なフィードバックを心がけている。例えば、子どもたちがCMを制作する授業では、「このCMが上手にできました」で終わらせることはない。「このCMを見たときに実際に商品を買いたいと思う?」「この表現は刺さったけど、この表現は刺さらなかったよ」など、現実に即した評価を行う。また、評価を付けたらそこで終わりではなく、なぜそれが評価されたのかを全員で考えたり、逆に評価されなかった理由をみんなで話し合う機会を持たせる。また、最終的にそのCMがいいかどうかを判断する人たちは誰なのか、CMのターゲットとなる消費者がどう感じるかがすべてである、という世の中の仕組みをきちんと教える。
「現実の世界で、CMを評価するのは消費者です。講師である僕たちでも、制作した本人でもありません。逆にアーティストであれば他人がどう思うかは関係なく、自分の絶対的評価で表現したいようにできますが、CMだとしたら、そうではないよね、というところまでみんなで話し合います。世の中の仕組みや成り立ちを知ることで、評価基準が職種や職業で違うこと、さまざまな生き方があることを子どもたちは理解します」
さらに講師の立場からの縦の評価だけでなく、チーム内の子どもたち同士で横の評価をすることも心がけているという。それによって、子どもたちは自分自身で気付いていなかった自分の能力や才能に気がつく。また、他者を認め合うことを自然に学んでいく。高学年になるとレーダーチャートを使って、ロジカルに考える力、クリエーティブに考える力、リーダーシップの発揮の仕方など、その子が持つ強みを、より具体的に伝えるようにしている。
「自分はこれが得意だと知ることで自己肯定感が上がり、自信がつく。子どもたちの表情も、性格もみるみる変わっていくんです」と、渡慶次さんは目をキラキラさせながら語る。学校教育では先生から生徒に対しての絶対評価のみになり、生徒同士の相互評価の機会はない。だが、実際の社会では評価基準はがらりと変わる。CMを作ったり、お店を企画して実際に販売するまでのビジネスを体験したり、オリジナルムービーを制作したり、デザインや建築を学んだり、その業界や社会の構造を体験しながら、子どもたちは好奇心と才能に火をつける機会を得て、学んでいく。
「人間にはいろいろな才能があります。一見おとなしい子やシャイな子も、すばらしい感性や表現力を持っていたりします。プログラムを通じて、さまざまな知的能力を試す過程で自分自身の本質を捉え、自分でも気づいていなかったクリエーティブな才能を知る子もいます。将来は建築家になるのかもしれないし、作家になるのかもしれない。僕たちがしていることはキャリア教育ではありません。自分が得意なものを見つけることで、最終的に自分がどう生きるのか、何をやりたいのかを知ることできる。そのためのインスピレーションを受け取ってもらえる場を提供し続けたいと考えています」。そう語る渡辺さんが向けるまなざしは、とても優しい。
社会人向けプログラムも同時展開の魅力
デルタスタジオがユニークなのは、このプログラムが大人に対しても用意されているということだ。通常子ども向けの塾で、大人に向けた研修プログラムなども提供しているというのはあまり聞かない。こちらのプログラムが対象としているのは、社会人1年目から社長まで。次世代リーダーの育成や、イノベーションを起こす人材を育てるプログラムを提供している。企業名は出せないものの、参加しているのは世界を代表する一流企業だ。この企業向け研修プログラムで得た知見は、子ども向けプログラムにも反映される。子ども向けと大人向け両方のプログラムがあり、インタラクティブに作用している点が非常にユニークだ。
渡辺さんはこう語る。
「例えば、研修プログラムで、エレベーターテストというものがあります。これはエレベーターのような時間的に限られた中で、さっと論理的に考え、相手に端的にものを伝える訓練ですが、同じことを小学校1年生にやらせてみると、すごく楽しむんです。そしてすばらしいトレーニングになる。これはとても面白いですね。社会人向けのプログラムを受講されてみて、この考え方をもっと早くから知りたかったという声や、自分の子どもを通わせたいと言ってくださる方が非常に多くいらっしゃいます。ロジカルシンキング、デザインシンキング、イノベーションを意識したプログラムは、ビジネスシーンだけではなく、教育の現場にも必要です」
それぞれの人間が持っている才能をどう生かすか。教育界に新たな風を吹き込むデルタスタジオのビジョンに、これからの教育の未来と希望を垣間見た。
(注記のない写真は梅谷秀司撮影)