関ヶ原の戦い「最も不運な武将」は誰だったか 勝ったのに「残念すぎる末路」は、あの人?

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「最も不運な武将」とは誰だったのでしょうか(写真 : 俺の空 / PIXTA)
関ヶ原の戦いは、全国の大名にとって大きな運命の岐路だった。
石田三成に率いられ敗北した西軍大名のほとんどは改易(かいえき)、減封、一方の徳川家康率いる東軍大名は軒並み所領が加増されている。
しかし、この戦いで苦汁をなめたのは、必ずしも西軍大名ばかりではない。
「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計20万部のベストセラーになっている。
本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「関ヶ原の戦いにおける、不運な勝者たち」を解説する。

京都の喧騒を「裸足の女性」が疾走する珍百景

『いっきに学び直す日本史』は「教養編」「実用編」合わせて20万部のベストセラーになっている(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)

慶長5(1600)年9月17日、京都の市中では2日前に美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)で起きた合戦の話題で持ち切りでした。そんななか、それをかき分けるように大通りを御所の方へ足早に走り去る1人の女性の姿がありました。

よく見ると、彼女は高貴な衣装を身にまとっていながら、足元は「裸足」のまま。慌てた様子はかなり奇妙でした。

そして何より驚くのは、その女性は誰もが知る有名人で、いまは亡き太閤、豊臣秀吉の正妻である「高台院(北政所、ねね)」その人だったことです。

彼女が御所に向かった理由は、合戦の余波から自らの住む屋敷(京都新城)が焼き打ちされるという噂に驚いたためでした。まもなくそれがデマと判明すると、彼女は数日後に御所から帰宅しました。

この顚末は、当時の貴族らによる記録に残されています。直接の当事者でないにもかかわらず、風評に動転し、裸足で京都を疾走する羽目になった高台院は、少々気の毒です。

関ヶ原の戦いでは、こうした「気の毒な目」にあった人、「報われない末路」を迎えた人が、敗北した西軍大名のみならず、勝者の側にも少なくありません。

そこで今回は、関ヶ原の戦いで「最も不運で、気の毒な目にあった武将」「一番の貧乏くじをひいた武将」は誰だったのかを解説します。

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