もちろん、直接会いに行くこと自体が間違いではない。熱意を伝えることで選手の心が動く可能性もあるだろうし、直接顔を合わせるからこそ伝わる誠意もある。
しかし、時代は変わった。とりわけ今回のように、選手本人がはっきりと別の進路を表明している場合はどうだろう。本人だけでなく家族や学校も対応を迫られる。訪問すれば、その様子は大きく報じられ、世間の注目を集める騒動になってしまう。
しかも、交渉に赴くのが他でもない松井秀喜なのだ。
現役時代からその実力だけでなく、誠実な人柄でも多くの野球ファンに愛されてきたスーパースター。今回の監督就任の報道に対するファンの興奮やメディアの盛り上がりを見ても、その影響力の大きさは健在であることがよくわかる。
松井氏は自身が動くことでどうなるかを一番よく知っているはずだ。だからこそ「すぐに会いたい」など熱意を示すことが、相手への圧力に変わる危険性も考えたのではないか。
新たな師弟物語を重ねたくなるのはファンの夢
92年、長嶋茂雄監督が第2次政権に向けたドラフトで引き当てたのが、当時18歳の松井氏だった。長嶋氏と松井氏が師弟として歩んだ日々は、巨人ファンにとって忘れがたい記憶だろう。そして34年後、監督となった松井氏の前に、新たな18歳の逸材が現れた。往年のファンなら、そこに新たな師弟物語を重ねたくなる。
だが、それはファンの夢であって、織田の夢とは限らない。
松井氏が直接説得し、それでも織田が米国挑戦を選んだとしたらどうなるか。「あの松井がわざわざ足を運んだのに」と織田を批判する声が上がる可能性もある。SNSでの心ない声は織田本人や家族、関係者の心を傷つけてしまうこともあるだろう。そんな状況は望ましくない。
実は松井自身も、織田と重なる経験を持つ。92年のドラフトで彼が入団を希望していたのは阪神だったが、4球団競合の末に交渉権を引き当てたのは巨人の長嶋監督だった。
くじを当て、長嶋氏が喜びを爆発させた一方、松井の表情は硬く、記者会見でも笑顔を見せなかった。さらに、長嶋氏から直接電話を受けた際も、そっけない受け答えに終始したという。そんな経験も、今回の織田への配慮につながっているのかもしれない。
圧倒的な実績を持つ人間が純粋な熱意で訴えることは美しい物語ではあるが、時に訴えられた側の若者の選択肢を奪う「無言の圧力」に変わりかねない。松井氏の言動はそうした非対称性に自覚的であるように感じる。そして、これは現代のリーダーに不可欠なバランス感覚でもあるように思う。
一方で、松井氏が素晴らしかったのは、織田の意思を尊重するだけで話を終わらせず、巨人ファンにも配慮した言葉を述べたことにある。


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