23年5月の総選挙では、不敬罪改定や徴兵制の廃止を公約に掲げたリベラル派野党の前進党が予想を覆して第1党に躍り出た。第2党はタクシン派政党のプアタイ。01年に前身の党が勝利して以来、クーデターによる追放や裁判所による解党処分があっても、次の選挙では必ず勝ってきたタクシン派政党が初めて経験する負けだった。
しかし前進党は政権を獲れなかった。上院が反対に回り、憲法裁が党首の議員資格を停止に追い込んだ。いずれも14年のクーデター後に設けられた「民主化阻止機関」である。その後、プアタイが公約を覆して親軍政党と連立を組んで組閣にこぎつけた。
23年8月、プアタイのセターが首相に就任した同じ日に、タクシンは15年ぶりに海外逃亡から帰国した。汚職事件で受けた禁固8年の判決を、国王の恩赦で1年に減刑された。そのうえ収監されずに警察病院に収容され、6カ月後に釈放された。
タクシンは06年に追放されて以来、本心はともかく選挙による民主主義の旗を掲げて王党派に対抗してきた。ところが、既得権層への抵抗を鮮明にする前進党が党勢を伸ばすなかで、タクシンは実質的に身柄を拘束されずに帰国を果たす見返りとして、親軍政党の政権維持に手を貸す取引をした。
タクシンにとって民主主義の旗は選挙戦術にすぎなかったのか
私は09年に逃亡先のドバイでタクシンにインタビューした際、「あなたはプリディーやピブーンソンクラームに自らの境遇を重ねることはあるか」と聞いた。
プリディーとは、1932年の立憲革命の立役者である元首相だ。名門タマサート大学の創設者でもある。ピブーンソンクラームは、第2次大戦前後の計15年にわたり首相を務め、国名をシャムからタイに変えた。タイの現代史を代表する2人の元首相はいずれも軍のクーデターで国を追われ、客死した。
タクシンは「(その2人と境遇を重ねることは)よくある。私は、彼らと同様に不敬のレッテルを張られて追い出された」と認める一方で、「私は彼らと違って民主主義の下で選ばれた首相だ」「私の後ろには1900万人がいる」と胸を張った。1900万は、05年の総選挙の比例区で自派政党が獲得した票数である。
望郷の念を募らせたタクシンが王党派に寝返り、民主主義の旗を降ろしたことは意外ではなかった。政権にあるときから報道機関を締め付けるなど権威主義的な傾向が垣間見えていたからだ。タクシンにとって民主主義は、選挙戦術にすぎなかったのではないか。地金が現れたように私には思えた。


※ログイン後、コメント入力が可能です。