自派政党を率いて01年の総選挙で勝利したタクシンは、貧しくても医者にかかれる「30バーツ医療」や地方重視の「一村一品」、村落基金などの政策で、都市貧困層や東北部農村部を中心に絶大な支持を集め、05年の総選挙では全議席の4分の3を獲得する圧勝を果たした。
史上最多の支持を集めた政権を倒したクーデターの背後には、草の根のタクシン人気を脅威に感じた王党派や既得権層がいた。
軍や王党派から徹底的に排除されたタクシン派
タクシン派政党は解党されたが、翌年実施された総選挙では後継政党が圧勝した。その後も王党派に連なる裁判所がタクシン派の首相を失職させたり、同派政党を解党に追い込んだりすることで選挙結果を無視し続けた。
同時に、王党派団体は、王室に対する不敬と汚職を理由にタクシン派政権に抗議する街頭活動を展開し、首相府や国際空港を占拠した。王党派が政権に就くと、タクシン派は首都中心部を長期に占拠し、排除に乗り出した軍と衝突して多数の死者を出した。
軍は14年、タクシンの妹の首相インラックをクーデターで再び放逐し、陸軍司令官プラユットが首相の座に収まった。王党派がインラックの人気を警戒したほか、タイの戦後政治で決定的な役割を果たしてきた国王プミポンの病状悪化が背景にあったとみられる。
プミポンは16年に亡くなり、皇太子のワチラロンコンが王位を継承したが、代替わりを王党派の手で執り行いたい思惑もあったとされる。この間、軍事政権は不敬罪を駆使して反対勢力を徹底的に抑え込んだ。
プラユットは軍の政治介入を大幅に認める新憲法を制定し、選挙制度も有利に作り替えたうえで19年に総選挙を実施した。プラユットは選挙に立候補しないまま親軍政党に担がれ、軍優位の任命制の上院の支持を得て首相に選出され、23年の総選挙まで居座った。


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