鎌田さんは、労働現場で生きる人の目線から、現実を捉えてきた。代表作の一つ『自動車絶望工場 ある季節工の日記』(1973)では、日本経済を牽引する自動車メーカーの工場内へ、一作業員として飛び込んだ。息つく間もない過酷なベルトコンベア作業で、心身ともに消耗する期間工たち。その非人間的な労働環境を活写した。
取材の特徴は、目線の低さにある。巨大な権力に押しつぶされそうな市井の人々、つまり“ちいさな一人”と同じ目線に立つ。知らないうちに私たちを取り巻く「何か」をひも解き、構造の問題として可視化する。
国や巨大企業が相手でも決して忖度せず、内包される闇を徹底的に暴き出す。そのひるまない姿勢から強面な人を想像していたのだが、本人に会うと、およそ真逆の人だった。おっとりとした口調で話し、温かい人柄が伝わってきた。その根底にあるものは、何なのか。鎌田さんは著書『ぼくが世の中に学んだこと』(1983)で、若き日の自身に触れている。
〈ぼく自身、転職によって都会の底を逃げまわる年少労働者そのものであった。いままでそれを忘れたことがなかった〉
1957年、18歳の春。高校卒業を機に、ふるさとの青森から夜行列車に乗り、上野駅のプラットホームに降り立った。
「最初は親戚の紹介で、カメラ工場に見習い工として入ったんですよ。でも、精密機械を作るためにマイクロメーターで0.1ミリ単位を測る作業が合わなくて。3カ月で辞めてしまった」
時代はなべ底不況。公共職業安定所は失業者であふれ返っていた。どうにかつかんだ次の仕事は、謄写版(ガリ版)印刷の見習い工だった。先輩の仕事を見ながら試用期間を終えたが、求人時に示されていた賃金は支払われなかった。
職場では同僚たちが労働組合を結成し、賃金闘争を行うようになった。すると経営者は一方的に、全員を解雇すると通知してきた。この理不尽な対応に、鎌田さんたち社員は職場を占拠し、労働争議を展開する。この頃、近隣の工場でも次々にストライキが起き、そこで働く人たちと互いに行き来し、知恵と力を貸しあった。彼らとの関わりによって、政治に関心を持つようになる。
鉄鋼業から日本を見る
そうした時、鎌田さんの生き方に深い影響をもたらす出来事が起きる。親しかった職場の3つ年上の先輩が、自ら命を絶ったのだ。仕事が終わった後、夜に部屋で語り合うほどの仲だった。彼は組合で執行役員まで担っていたが、争議が長引く中で姿を見せなくなっていた。ある時、睡眠薬を飲んで自殺していたことを知らされる。会社では自分が一番近い存在だったはずのに、何も理解できていなかった。
「労働問題を書きたい。そのためには勉強をしなければ」
そう決意した鎌田さんは、60年に早稲田大学に入学。世の中は安保闘争の喧騒に包まれていた。時代の空気を吸い込みながらゴーリキーを愛読し、国会前デモにも連日参加した。
時は高度経済成長の真っ只中。鉄鋼業が生産力を急拡大させていた。そんな時、鎌田さんは企業のPR映画で真っ赤に溶けた鉄が高炉から勢いよく流れる情景を目にする。鉄鋼業から日本を見つめてみようと思い立った。
卒業後は、鉄鋼新聞社に記者として就職。だが、主な取材テーマは設備投資や鉄鋼市況にまつわる話で、そこで働いている人のことではなかった。約2年半勤め、都内にある中小の工場はほぼすべて見て回った。月刊誌の編集者を経て、30歳でフリーランスとして独立した。ずっと心に残っていたのは、かつての仲間たちと、その頃の自分だった。鎌田さんはのちに、こう述懐する。
〈ぼくは町工場の見習い工だった。そのことがいまの仕事をつづけさせている。いま、いろんなところで労働者たちと会いながら、ぼくはいつも自分のちいさな姿をみつめている〉


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