泰平の世を迎えて久しいにもかかわらず、赤穂城はとことん戦を意識した構造となっている。赤穂浪士たちも、幕府に一矢報いたいと前のめりになったとしても不思議ではない。
ところが、なんともちぐはぐなのが、赤穂城には天守台だけが築かれて、天守は一度も造られなかったということ。どうも幕府に「外様大名が天守を造るとは」と警戒されることを恐れたようだ。
天守が造れない――。そんなトホホな制約から、別の箇所がこだわり満載になったのかもしれない。
堀の形がワッフルそっくり!「山中城」
JR三島駅から元箱根行の東海バスに乗り、30分ほど揺られると山中城跡のバス停に到着する。城跡に足を踏み入れて驚かされるのは、その特徴的すぎる「障子堀」だ。
ワッフルの網目のような形をしていることが話題となり、ベルギーワッフルと一緒に写真を撮影する観光客も多くいるとか。しかし、もちろん、デザインを重視してこのような堀を造ったわけではない。
山中城は、北条家の3代当主・北条氏康によって、小田原城の支城の1つとして築かれた。やがて豊臣秀吉と対立すると、秀吉の来襲に備えて、北条方は天正15(1587)年頃から小田原城の前衛基地として、山中城の大改築を行っている。
氏康といえば、北条家きっての築城の名人だ。この山中城には、敵の侵入速度を落とすために堀の底を細長く盛り土で等間隔に区切った畝堀のほか、ワッフル堀とも言うべき障子堀がふんだんに使われている。
そもそも堀の役割は、攻めてくる敵の足止めをすること。山中城の堀は通常よりも細かく底が区切られているため、攻め手からすると厄介なことこの上ない。
底で身動きがとれずにいれば、すぐさま敵の標的になるが、さりとて這い上がれば、姿は丸見えで格好のターゲットとなってしまう。
かといって動こうとすれば、細かく堀が区切られているがゆえに、仕切りを伝うか、堀を上ったり下りたりして進むほかはない。これもまた狙ってください、というようなもので、敵に発見されやすくなってしまう。障子堀は、どうしてもその奇妙な形状ばかりに目がいきがちだが、堀としての実用性は極めて高かったと言えそうだ。


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