韓信の背水の陣は、退路を断つことで兵士の死力を引き出し、大勝利をもたらした。
だが、伊豆・長浜城の「背水」は、敵の侵入を阻む一方で、補給路をも断ち切る諸刃の剣だった。背水の城は、秀吉という天下人を前に、その逆説を証明することとなったのである。
戦に備えたが肝心の物がない「赤穂城」
「赤穂城」という名前にピンときた人もいることだろう。『忠臣蔵』の物語で有名な、討ち入りを果たした赤穂浪士たちの城のことだ。
事件の発端は元禄14(1701)年、江戸城内の松の廊下で、浅野内匠頭長矩が幕府高家の吉良上野介義央を斬りつけたことだ。
本来であれば、両者の言い分を吟味したうえで、裁定が下されるべきだったが、第5代将軍の徳川綱吉は「内匠頭の切腹」「赤穂浅野家の領地没収」「家名断絶の処分」と一方的に内匠頭側だけを罰したのである。
突如として主君を失った赤穂浅野家の家臣たちが、怒りに震えたのは言うまでもない。そのうえ「幕府が赤穂城の接収に動いている」という情報が入ったのだから、たまったものではない。急きょ広間で大評定が開かれると、こんな声があがったという。
「籠城して、城を枕に討死すべきだ」
結局は大石内蔵助が家臣たちをうまくまとめて城を明け渡すことになるが、赤穂城の歴史を踏まえると、そんな強硬な意見があがったのも無理はない。
赤穂城はもともと、赤穂藩初代藩主・浅野長直によって慶安元(1648)年から実に13年以上かけて築城されたものだ。設計したのが著名な軍学者・山鹿素行に師事していた軍学師範の近藤正純で、甲州流軍学に基づいたつくりになっている。
近世城郭は直線を基調とすることが多いなかで、複雑に折れ曲がった堀や、曲線を描いた石垣を設けることで、横矢(側面から敵に攻撃すること)による側面攻撃を可能にしている。さらに、角度を違えるようにそれぞれの門を造ることで、敵の侵入も妨害した。


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