武田方は、駿河における拠点の1つとして三枚橋城を築く。天正7(1579)年のことだ。築城したのは武田勝頼である。
武田の三枚橋城に対抗して、北条が水軍基地である重須港を守るために整備したのが、長浜城だと言われている。長浜城には、水軍の大将である梶原備前守が配置された。
そんななか、天正8(1580)年3月15日、武田の軍船5隻が長浜城に攻め寄せると、北条と武田の水軍による駿河湾海戦が繰り広げられる。
このときの勝敗の行方は定かではないが、武田軍は簡単に長浜城を落とすことはできなかったようだ。なにしろ、長浜城は海を背にしているため、背後から攻められる心配がない。侵入ルートが限られているため、守りやすいというわけだ。結局、武田家は天正10(1582)年に織田信長らによって滅亡させられることになる。
秀吉が「小田原攻め」を開始した
だが、それから8年後、長浜城が再び脅威に晒された。天正18(1590)年、豊臣秀吉が小田原攻めを開始したのである。
ここでも北条方は長浜城の地の利を発揮した戦いが展開された……と言いたいところだが、激しい戦闘があったという記録は残っていない。あっさりと落城させられたようだ。
それもそのはず。海を背にしていれば、侵入ルートが限られている代わりに、陸上からの補給路も一方向になりやすい。兵糧攻めを得意とした秀吉ならば、そんな弱点を見逃すはずもなかった。
秀吉は陸上で包囲するだけではなく、海上からも北条氏の補給路を断つために封鎖を強化。小田原攻めでは、多くの支城が戦闘なしで開城させられている。どうも長浜城もその流れの中で放棄されてしまったようだ。
一説によると、水軍の主力が小田原の川岸に集結したことで、長浜城は水軍基地としての機能を失い、韮山の開城とともに廃城になったとも言われている。いずれにしても、北条水軍の実力を発揮できないまま、秀吉に降伏。ざんねんな結果となった。


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