連載「秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像」の第23回は、兄とともに但馬と播磨を攻略した秀長の実力について『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。
一揆勢に弟の命を奪われた織田信長
豊臣秀長は豊臣秀吉の「名補佐役」と評されることが多いが、ただサポートしただけではなく、時に秀吉の代役も果たした。
天正2(1574)年、信長は過去に2度も鎮圧に苦慮した伊勢長島の一向一揆衆に対して、3度目の正直とばかりに大動員令を発した。『信長公記』によると、そのときの意気込みは次のようであったという。
「信長は彼らに対して常に鬱憤を抱いていたけれども、天下の政務に忙殺されて暇がなく、河内長島の征伐は延引していたのである。今度こそは諸方面から攻めかかり、必ず成敗するとの決心であった」
<日比御鬱憤候へつれ共 信長天下之儀依被仰付御手透無御座御成敗被成御延引今度者諸口より取詰急度可被成御対治の御存分にて>
信長からすれば、弟の織田信興が、長島一向一揆衆によって死に追いやられている。「決して許すまじ」という強い気持ちで3度目の征伐へと挑むこととなった。
怒りを募らせる信長の元で、秀吉も一揆勢の討伐に貢献したかったことだろう。だが、このとき秀吉は越前一向一揆に備えて現地入りしていた。
そのため、代わりに弟の秀長が羽柴隊を率いることとなった。信長の馬廻りであった浅井新八(信広)とともに、秀長が一揆勢と戦ったことが、『信長公記』に記されている。
