「一揆勢は小木江村に防衛の陣を張っていたが、これを追い払って進撃した。また、篠橋から一揆勢が出撃して応戦したので、これには羽柴秀長・浅井政澄の二人が攻め掛かった」
<一揆小木江村を相塞候追払御通候又しのはしより一揆罷出相支候則木下小一郎浅井新八両人被懸向候>
そんな秀長らの活躍もあり、織田軍は一揆勢の鎮圧に成功。2万人にも及ぶ一向宗門徒が焼き打ちにされることになった。
秀吉が攻略した竹田城の城代を秀長が務めた
秀長が伊勢長島の一向一揆鎮圧に参加した翌年、天正3(1575)年のことだ。秀長は近江国伊香郡古橋村の住人に対して、年貢についての文書を出している。このことから、長浜城で「一国一城の主」となった秀吉から秀長に、伊香郡に一定の所領が与えられたようだ。
注目すべきは、このときに秀長が「羽柴小一郎長秀」という署名を使っていることだ。
秀吉が信長の2人の重臣、丹羽長秀から「羽」を、柴田勝家から「柴」を一字ずつもらい受けて「羽柴秀吉」と名乗ったのは、天正元(1573)年のことだから、それから約2年後には弟の秀長も「羽柴」の名字を使っていたことになる。
城主の代わりに城を守り、政務を代行する役目のことを「城代」と呼ぶ。『信長公記』によると、天正5(1577)年10月の時点では、秀吉が攻略した但馬の竹田城の城代を秀長が務めていたようだ。
秀吉はというと、天正6(1578)年に播磨の別所長治が信長から離反し、三木城に立てこもったので、その攻略にあたっている。
「秀吉のいるところに秀長あり……か」
周囲にそう思わせるように、秀吉は差配していたのではないだろうか。
天正6(1578)年10月22日、平山合戦にて戦功を挙げた樋口彦助に対して200石が与えられたときには、知行を与える文書には、わざわざ「羽柴筑前守秀吉」「羽柴小一郎長秀」と、別々に名が記されている。
参謀がいるリーダーと、いないリーダーでは前者のほうに重みがあり、隙がないことは言うまでもない。秀長は秀吉の代理を務めながら、その存在感を高めていった。
