「手書き」のほうが「記憶の定着」に有利
――ご専門の言語脳科学とは、どのような学問なのでしょうか。
人間が言葉を使える能力を明らかにするため、MRI(磁気共鳴画像法)などを使って脳の反応を測定し、科学的に検証していくことがテーマとなっています。アメリカの言語学者であるノーム・チョムスキーは、「言語に規則があるのは、言語が自然法則に従っているためだ」とする言語生得説を唱えましたが、実際、脳科学のアプローチからそれを裏付ける結果が出てきています。最終的には芸術表現の能力が脳のどこに宿っているのかなどを明らかにできたらと考えています。
現状の成果としては、手話も自然言語であることが学問的に裏付けられたため、ろう児が手話を獲得する必要性や教育環境の整備について提言できるようになりました。また、自然な音声に接する環境があれば、大人になっても複数の言語を習得することが可能であることもわかってきており、私の研究室では言語習得に関する研究も盛んに行われています。

東京大学大学院総合文化研究科教授
1964年東京生まれ。東京大学大学院理学系研究科博士課程を修了。東京大学医学部助手、ハーバード大学医学部リサーチフェロー、マサチューセッツ工科大学客員研究員、東京大学大学院総合文化研究科助教授・准教授を経て、2012年より現職。著書に『言語の脳科学』(中公新書、毎日出版文化賞受賞)、『デジタル脳クライシス』(朝日新書)など多数
(写真:本人提供)
――ご著書には「タブレット端末よりも手書きのほうが、記憶が定着しやすい」といったことが書かれていましたが、改めて手書きの有用性についてお聞かせください。
手書きの研究はまだ少ないのですが、私が携わった共同研究「紙の手帳VSモバイル機器:記憶想起時における脳活動の差」では、使用するメディアによって記銘に要する時間が異なり、想起時の成績や脳活動に差があるという結果が得られました。紙の手帳への手書きのほうが、紙と書き込んだ文字の位置関係など、書いた内容を思い出す際の手がかりが豊富であるため、記憶の定着に有利だということがわかったのです。
また手書きには、自分の考えをまとめ、それを批判的に見直すだけの時間的な余裕があります。例えば、自身の考えを発表しようと思った場合、脳は内容を吟味し、理解し直し、表現を改めて創造的に出力するという検証を繰り返します。そのため、字数制限が先立ってやり取りするようなSNSなどは脳にとって不自然な入出力となり、本来の解釈や表現という大事な過程がおろそかになってしまうと考えられます。
教育の議論で見落とされている「脳のメカニズム」
――大事な過程とは、どういうことでしょうか。
脳にとって何が自然な入力なのか、その入力をどう理解してどのように出力するのか。このメカニズムはある程度解明されています。まず見たり聞いたりといった「入力」があり、「想像」で補ったうえで「構造化」をして、「理解」や「記憶」と照らし合わせた「解釈」を行い、適切な「表現」によって「創造」をして「出力」されます。本来、教育もこうした「想像と創造を支える脳のメカニズム」を土台にして議論しなければいけません。

しかし、何の検証もなく教育現場ではデジタル化が進められています。今ブームとなっているAIも記憶にあたるデータは豊富ですが、脳のような構造化を軸とした検証機能がなく、意味を理解しないまま文章を合成するだけなのです。いくら文章を合成しても、意味理解がなければきわめて危険です。
このままAIも無制限に使えるようになったとしたら、子どもたちは物事を考えて判断する機会がなくなり、理解も浅薄なものになります。その結果、人の意見を聞いて譲歩したり、折り合いをつけたりすることもなくなって、自己主張や強弁ばかりが強くなるでしょう。こうした傾向はすでにSNSにおいて、大勢の人がフェイクニュースに流されたり、言ったもの勝ちのような投稿が散見されたりといった形で表れています。
学習指導要領の改訂によって学習評価も3観点となり、「理解」が消えてしまいました。「主体的に学習に取り組む態度」も大事なことですが、何をどのように理解しているかを確認・検証することが見落とされていると思います。
――学生とのやり取りの中で、デジタル化による弊害を感じたことはありますか。
十数年ほど前から、レポートが日本語になっていない学生が増えました。推敲してほしいと言うと、「推敲って何をするんですか?」と真顔で聞いてくる東大生が少なからずいます。少子化の中で自分の考えが間違っていることを指摘された経験が少ないという環境の影響もあるのかもしれませんが、自分の文章を客観視して冷静に見直すという経験がないまま成長してしまったのは、小さい頃からのスマホやインターネットの利用なども無関係ではないと思います。
国を挙げてAI投資が行われる中で教育のデジタル化も推進されていますが、とくに脳のあらゆる機能が未熟な子どもがデジタル機器やSNSに依存するのは危険です。オーストラリアでは16歳未満のSNS利用を禁止する法案が可決されましたが、英断だと思います。
教員が授業で意識したい、「入力を少なく、出力を多く」
――文科省の中央教育審議会に設置されたデジタル教科書推進ワーキンググループにおいて、デジタル教科書のあり方が議論されています。中間案では「デジタル教科書も正式な教科書」と位置づけ、教育委員会が紙・デジタル・ハイブリッドから教科書を選択する方向性が示されました。
私は一貫して、デジタル教科書の導入に反対しています。デジタル機器が紙に勝るというエビデンスはありません。アンケート調査では明らかに不足で、教科の理解度に対する違いを検証する調査はまだありません。
例えば、今やデジタル教科書にはQRコードによるリンクがたくさん貼られていますが、わからないことはリンク先に飛べばいいという状況では自分の頭で考えなくなりますし、何を読んでいるのかわからなくなってしまう恐れもあります。リンク付きテキストに関する活動は、認知的負荷を増大させ、学習を阻害させるという心理学研究の仮説もあります。とくに一文一文の理解を積み重ねて読む必要のある場合は、リンク先に移るたびに読みが浅くなり、それが全体の理解を妨げてしまう可能性があります。
しかもデジタルと紙のどちらを選ぶかは自治体に判断が委ねられるということは、そもそも子どもたちに紙の教科書を選ぶ権利がなく、その点も問題です。
――教員は授業を行ううえで、どのように言語脳科学の知見を生かすとよいでしょうか。
どの科目であれ、入力を少なくして出力を多くすることが基本です。デジタル教科書やインターネットの情報のように入力がたくさんあると、想像力を奪ってしまう可能性があります。自分で理解・解釈する余地がなくなってしまうのです。
そのため、教科書はできる限り薄くし、基礎的なことをきちんと理解したうえで自由に考えさせて出力させるのがよいでしょう。国語なら、教科書に出てきた作家の別の本を読んで新たな解釈をしてみるとか、自分がお勧めの本のよさを伝える文章を書いてみるなど、読書の時間を生かすことが大切だと思います。
教科書の中身も重要です。今は論理的思考が重視され、散文やエッセイが好まれていますが、むしろ優れた文学作品を選ぶべきでしょう。文学作品は感性とより深い解釈が求められ、効率的な理解ができないからこそ、その余地が想像力を高めてくれます。
芸術に関わる能力の基盤も言語能力であることが、われわれの研究で明らかになっており、国語はあらゆる教科の基礎と言えます。音楽表現も言語表現に近い構造化を伴うことがわかってきていますので、音楽や美術といった芸術の時間も大切にしなければいけません。
「想像力の深まり」を教育の成果だと捉えて人を育てる
――「個別最適な学びと協働的学び」が推奨される中、家庭学習や探究学習、読み書きに困難がある子どもの学習などにおいて1人1台端末を活用する学校も増えています。こうした活用についてはどうお考えでしょうか。
繰り返しになりますが、効率重視のデジタル機器は人間の能力を高めるようにはデザインされていません。タブレット端末で指によるタッチ操作を使っているために、ペンを使えない子も出てきています。脳の認知機能や身体機能に対する影響など、人間のことを考えずに設計されたものを使うのは危険です。
探究学習そのものは効果が高いのですが、タブレット端末を使い「検索して発表」で終わっている現場も多いのではないでしょうか。それでは理解がまったく深まりません。タブレット端末を活用した学習では機械に使われてしまう分、主体性がなくなるでしょう。
さまざまな理由で学習に困難のある子どもたちに対しても、本気で個別の対応ができない限り、現状のデジタル機器だけでは限界があります。例えばろう教育では、少なくとも手話通訳者が必要ですが、配置されていません。 そうした現状を踏まえると、機器のオプションが多くあっても適切な調整は難しく、一律の公教育で個別最適な学びは実現できないでしょう。
――AIをはじめテクノロジーが進展する時代において、どのような人材を育てるべきだと思われますか。また、教員は教育活動において何を大切にするとよいでしょうか。
自分とは異なる他の価値観を許容し、それに対する思いやりを発展させていくことができるかどうか。まずはそうした想像力の深まりを教育の成果だと捉えて人を育てることが大切だと思います。そのうえで、未知の状況に直面したときに、自分で合理的な判断をして行動できるような知的な素地をつくることが、最低限求められるのではないでしょうか。
学校の先生方に求められることは今も昔も同じで、子どもたちの人間形成に対して親のような責任をもって見守ることです。あくまでもデジタル機器は手段にすぎません。とくに小中学生においてはタブレット端末の機能を制限する必要があるでしょう。これまで述べてきたように、早い時期からデジタル機器に触れていると、十分な言語理解が阻害され、すべての思考や学習にも影響してきます。
もちろん、コロナ禍で学んだように、体調が悪い日も遠隔で授業が受けられるなど、最低限のタブレット端末の活用はあったほうがよいでしょう。しかしその際も、AIやSNSなどの機能を制限した端末を使うことが必要です。
デジタルのよさとして「効率」ばかりが強調されますが、それは「脳を使わない効率」なのです。そのことを踏まえ、脳を生かす教育をデザインしなければいけないと考えています。
(文:國貞文隆、注記のない写真:horiphoto/PIXTA)