国連安保理の説明はできるのに、名前が書けない

全般的に知的発達に遅れはないが、「聞く」「話す」「読む」「書く」「計算する」「推論する」といった学習に必要な基礎的な能力のうち、一つないし複数の特定の能力についてなかなか習得できなかったり、うまく発揮することができなかったりすることによって、学習上、さまざまな困難に直面している状態――文部科学省は、LDについてこう定義する。

そうしたLDの子どもたちの支援を行う一般社団法人読み書き配慮代表理事の菊田史子さんは、LDの子を持つ母でもある。息子の有祐さんの幼い頃について、こう振り返る。

菊田史子(きくた・ふみこ)
一般社団法人読み書き配慮代表理事
学習障害のある息子が慶応義塾高等学校へ進学したのを機に学習障害(LD)の社会的解決を目指して同法人を立ち上げる。LDを「知る(理解)・調べる(検査)・支援する」を柱に、データベース事業、セミナー・相談事業などを展開。「読み書き苦手な子供のスクールKIKUTA」は、著書『読み書き困難のある子どもたちへの支援〜子どもとICTをつなぐKIKUTAメソッド』(金子書房)でノウハウを公開している

「有祐が4歳の頃、ニューヨークに滞在していたのですが、有祐の姉の自由研究で国連本部を訪れたことがありました。日本語の通訳付きで案内してもらって帰宅すると、有祐が『安保理ってね、勝ったチームしか入れてもらえないの。でも日本は世界で2番目にお金を出しているんだよ』といきなり説明し始めたのです。それなのに、小学校入学を前に文字を書かせてみると、書けない。せめて名前だけでもと思いましたが、どうしても形にならない。そのギャップに、強い違和感を覚えました」

また、普段から「座っていなさい!」など注意しなければいけない場面が多いことも気になっていた。

「小学校に入ってからはより適応できないことが増え、本人も毎日報われない思いがあったのでしょう。帰宅すると大暴れして宿題などできる状態ではなく、何とかなだめて夕食と入浴を済ませることができるかどうかという日々。『このままではこの子をダメにしてしまう。診断名が必要だ』と考え、医療機関へ連れていきました」

すると、小児精神科の医師はこう言ったという。

「お子さんはアスペルガーです。知的な能力は高いのですが、読み書きに不自由が出るかもしれません。そういうお子さんは海外に出られるケースが多いです。日本で育てる場合、小中学校で心に傷がつかなければ、社会に出ることはできるでしょう。社会ではパソコンを使うことができますから」

この言葉に史子さんは、「学校は子どもの可能性を切り開くところでは?」と不思議に思ったという。

「同じ頃、知人に『あなたのお子さん、ディスレクシアじゃない? うちの子もそうなの』と言われたんです。そこで初めてLDやディスレクシアという言葉を知り、調べ始めました。その方のお声かけがなかったら見過ごしていたかもしれません」

※ 発達の遅れがないのに読み書きに困難がある、LDの1つのタイプ

「いいお母さん像」を手放し、努力のベクトルを変えた

しかし、この段階でも史子さんは「練習すればいつかは文字を書けるだろう」と考え、必死に書くことを練習させたという。

文字を書くことが難しい有祐さんにとって、手書きの宿題は苦行だった
(写真:編集部撮影)

「何度練習しても定着しないことを一番わかっていた息子にとって、文字を書かなければいけない学校は、いわば敵だらけの場所。そこからやっと帰宅しても、家では私が消しゴムと鉛筆を持って待っているわけです。練習させても暴れて泣きじゃくり、宿題を終えるのも一苦労で、疲れて眠るという繰り返しが4年生まで続きました。私自身、疲れきっていたのに諦めきれなかったのは、いいお母さんでいたかったんでしょうね。自分の自己満足だと気づいたとき、『練習はやめて、努力のベクトルを変えよう』と有祐に伝えました」

そこから史子さんは、有祐さんの知的好奇心を広げる方向へと舵を切った。「アスペルガーは極めることができる人。好きなことを教えてくれる先生を探しなさい」という主治医の助言から、個人指導塾に相談し、有祐さんの興味のある数学、物理、化学などを教えてくれる大学院生をつけてもらった。すると有祐さんは、「今日はね、乱数を習ったの!」と、塾のある日は生き生きと話をするようになったという。

そして有祐さんが5年生の夏、iPadを使うと学習しやすいことが判明。本人は「学校で使うのはダメと言われるに決まっている」と利用を渋ったが、史子さんは「有祐の教養を開く窓はICTしかない」と考えた。

「本人の気持ちが固まるのを待ちつつ、担任の先生とはiPadの利用について相談を重ねていきました。そうした中、翌年1月のある日、有祐が『やっぱり俺にはiPadが必要だから、先生に頼んでくる!』と学校に走っていったんです。それを機に担任の先生が丁寧に調整をしてくださり、晴れて6年生からiPadを使えることになりました」

6年生から授業でiPadを使えることになった有祐さん

大切なのは、特性を前向きに捉えて説明できること

周囲の協力を得ながら、中学校でもパソコンを使用して学んだ有祐さん。しかし、情報端末の使用については学校や教員と粘り強く交渉を重ねる必要があり、高校受験の際も、入試や入学後のパソコン使用を認めてくれる高校は2校しかないなど、親子ともに数えきれないほどの壁に直面した。

その長い奮闘については、有祐さんのインタビュー記事で詳しく紹介しているが、「学ぶ機会を確保するために、なぜこんなに苦労しなければいけないのか」という当時の思いが、一般社団法人読み書き配慮を創設した原点になったという。

読み書き配慮では、心理士による読み書き検査や検査者の養成、LDの学習配慮に関する相談、読み書きが苦手な小中学生がICTの活用や配慮を交渉する力などを学ぶスクール「KIKUTA」の運営、合理的配慮の事例集の公開などを行っている。

KIKUTAでは、LD当事者の大学生がスタッフとして子どもたちをサポート。大学生は人の役に立てることを体験し、子どもたちは自分に合った学びのスキルを得ながら大学生の姿に将来の希望を見出す場になっているという

こうした活動を通じて、全国のLD当事者とその保護者の相談に乗ってきた史子さんだが、「今もLDの子どもを取り巻く環境は厳しい」と感じている。そのうえで、当事者が合理的配慮を学校で受けるために必要なことについて、次のように話す。

「保護者も学校に丸投げしないこと。まずは本人の心が育っていることが重要で、書けないことを引け目に思っているうちは、戦うことはできません。本人が自分の特性を前向きに捉えたうえで、『どんな方法なら自分の実力を出し切れるか』を自分で説明できるようになることが大切。読み上げてもらうのがいいのか、読み上げでも機械と人のどちらがいいのか、どんな方法で書くのか──自分に合った方法で時間内に書き上げる調整や積み重ねも大事です。高校入試を考えると、中3の1学期までにはこれらを確立し、支援計画書に盛り込んでもらうのがよいでしょう」

普段の定期テストや受験でのパソコン使用の許可を取りつけるには、学校との連携も欠かせない。

「有祐も小学校でのiPadの使用実績を持って中学校に交渉し、中学校の定期テストのパソコン使用実績を持って高校に交渉しました。学校と一緒にその子なりのやり方を確立して実績をつくっていくことが大切です。また、受験当日のパソコン使用を許可してくださいと親が志望校にお願いすると、点数交渉をしにきたと思われるようです。ですから、親が前に出るのではなく、学校の先生に窓口になっていただき、志望校と交渉してもらうことも重要です」

一部の自治体や学校では支援や配慮を必要とする子どもたちへの理解が進みつつあるが、LDやディスレクシア自体の認知度はまだ高くない。そのため、学校との連携に当たっては、まずは知ってもらう必要があるという。

「チームをつくるような意識が重要で、仲間や味方を作っておくといいですね。私は積極的にPTA役員を引き受けました。その際、先生にわが子のことをお願いするのではなく、まずは先生や学校のお手伝いをして気持ちのよい人間関係を築くことを大切にしました」

早めの支援で「学力を積み上げる」重要性

また、LDは早い段階で気づいて支援につなげることが大切だと史子さんは言う。低学年で気づいても「様子を見ましょう」と言われ、そのまま時間が過ぎていくことがよくあるからだ。

「今の社会や学校はすべて文字言語がベースになっていますから、考える力があっても読み書きができないとわからないことが増え、小学校の高学年にもなるとかなり苦しい状況に置かれます。聴覚を通じた理解力はかなり高いのに、学力の積み上げができていないことで、WISKなどの知能検査では知的障害領域と判断されてしまう子も。そのため、早い段階からICTを活用して学ぶ力を身に付けさせてあげることが非常に大切になります」

適切な支援や合理的配慮が受けられずに学力の積み上げができないと、「自分はできない子なのだ」と心に傷がついてしまう。それが最も問題だと史子さんは指摘する。

「LDの子どもたちは心が折れてしまっているケースが多く、私たち読み書き配慮は心の立て直しを活動の第一義としています。今は、社会に出ればパソコンを使いますから、心を立て直すことができればその先の人生は何とかやっていけます。学校の先生方には、まずはLDについて知ってもらい、ご自身で配慮を判断していただけるとありがたいですね。担任の先生が『校長に確認します』、校長が『教育委員会に確認します』、教育委員会が『前例がないか調べます』と次々と投げてしまい、時間だけが過ぎていく事態は避けたいもの。実際、担任の先生が判断して校長やほかの先生とうまくつなげてくださるケースは、合理的配慮が実現しやすいです」

合理的配慮とは、スタート地点に立てるようにすること

文部科学省はLDをはじめ障害のある児童生徒の教育支援体制の整備を推進してきた。障害者差別解消法が施行された2016年には行政や公立学校で合理的配慮の提供が義務化され、2024年4月1日からは私立学校を含む事業者においても同じく義務化された。しかし、現場の理解が追い付いていない現状がある。

「この4月以降も、LD当事者とその保護者から『私立学校の説明会で“合理的配慮はできない”と言われました』という声が届いています。また、合理的配慮をしますと言われたのに、いざ入学したら対応してもらえないケースも。そうした学校は、合理的配慮を点数交渉と誤解されているのかもしれません。合理的配慮とは受験の合格点を変えることではなく、スタート地点に立てるようにすることです。LD当事者が学びでICTを使うのは、裸眼で見えにくい人がメガネを使うのと同じ。大学入学共通テストでも、問題文の読み上げやパソコン・タブレット端末の利用は受験上の配慮事項として明記されています」

史子さんは、働き手が少なくなっている時代の流れからしても、1人ひとりの学びの保障は重要だと強調する。

「これからは、AIや機械なども活用しながら、みんなが活躍しなければいけない時代で、1人ひとりの能力を磨いておかなければ社会が成立しません。そのためにも、学びを保障し、子どもたちそれぞれのよいところを見出してあげることが大切ではないでしょうか」

子どもたち1人ひとりが学びを深め、自身の可能性を認識して人生を切り開いていく。そのために必要な教育や支援とは何か、学校現場は今、改めて考える必要がありそうだ。

(文:吉田渓、注記のない写真:菊田史子さん提供)

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