学校の宿題と学習塾の負担を減らす「双減政策」
高考(ガオカオ)まで残り6500日――。数年前、中国のSNSを見ていたとき、こんな言葉が目に飛び込んできた。生まれたばかりの赤ちゃんの枕元に置かれていた紙に書いてあった言葉で、筆者は「中国の大学入試はそんなに過酷なのか」と驚かされた。
中国の大学入試の正式名称は「普通高等学校招生全国統一考試」といい、通称は短縮して高考と呼ばれる。中国には、日本のように独自試験を行う私立大学はほとんどなく、ほぼすべてが国立大学。毎年6月に全国各地で2~4日間、同時に行われる試験によって合否が決定する。中国では浪人は一般的ではなく、この数日間の試験でよい成績を収めなければ希望の大学への進学の道は絶たれるため、受験生のプレッシャーは非常に大きいといわれる。
そのため、都市部の中間層以上の家庭では子どもを双語(中国語と英語を使用する)幼稚園に通わせたり、受験生に1時間1000元(約2万円)以上の高額な家庭教師をつけたりすることは当たり前。一部の都市では、子どもが高校2年生になる頃から、高校のすぐ近くに別宅(勉強部屋)を借りることも珍しくない(通学時間を少しでも省き、子どもの負担を減らすというのが目的)。
だが、そんな過熱する教育熱に一石が投じられた。日本でも大きく報道されたのが2021年7月に発表された「双減政策」だ。双減政策とは共同富裕(ともに豊かになる、という意味で中国政府が掲げたスローガン)の一環で、学校の宿題と学外教育(主に学習塾)の負担を減らすというものだ。
日本では「中国版ゆとり教育」との報道もあったが、小中学生向けの新規の学習塾の開設が禁止され、大手学習塾チェーンが次々と閉鎖された。高校生の教育に関しては対象外だったが、政府がこのような方針を打ち出した背景には、富裕層が子どもの教育に莫大な費用をかける一方、教育費を捻出できない家庭からは不満が広がっている問題があり、格差是正をすることが主な目的だ。
「重点大学に入学できなければ人生終わり」という風潮に変化
1952年から始まった高考は「中国で数少ない平等な試験」だと言われてきたが、実際には不平等な点や時代に合わない面もあり、2014年以降、改革が行われている。
従来、試験は国語、数学、外国語の3科目に加え、文系の学生が受験する3科目と、理系の学生が受験する3科目に分かれていたが、改革により文系と理系の区別がなくなり、全受験生が3科目を自分で選択できるようになった。また、従来は別々の試験問題だったところ、複数の省で同一の試験問題を導入するなど、公平性を重視した改革を実践している。
中国教育部(文部科学省に相当)によると、22年6月の受験者数は前年比115万人増の約1193万人だった。改革が進んでいることに加え、受験生側の意識も少しずつ変わりつつある。以前は重点大学(政府が資金を多く投入している、いわゆる有名校)への入学希望が圧倒的だったが、近年は多様化しており、必ずしも有名な大学でなくても、自分が興味を持つ専攻がある大学への入学を希望する学生も増えている。
むろん、学歴社会の中国では「重点大学に入学できなければ人生は終わりだ」といった風潮はまだあるものの、1990年代後半から大学がマンモス化し、入学者数を増やしており、重点大学を除けば、進学のハードルは低くなっている。Z世代の若者の間では「親のメンツのためだけに有名大学に進学することは無意味だ」といった考え方も広がってきており、親のほうも、以前に比べれば、本人の希望に耳を傾けるようになってきている。
増える海外留学、欧米に比べ「安心、安全、安価」な日本留学
そうした意識変化の背景にあると思われる要因の1つがネットの発達、そして経済的なゆとりから増える海外留学という選択肢だ。中国では2013~14年ごろから急速にスマホが普及し、「自媒体」(自分メディア)と呼ばれるSNSが発達。教育も含め、多方面の情報が爆発的に増えた。経済的に豊かになり、海外在住の中国人からもたらされる情報も増えた影響で、留学の道を選択し、高考を避ける人も現れ始めた。
大都市にある重点高校のほとんどに「国際班」と呼ばれる全員が留学を前提としたクラスが1~2クラス以上、設置されている。筆者が17年に北京の高校生から聞いた話では、当時、その学生が通う高校は1学年約1000人で、クラスは20以上もあり、そのうち6クラスが国際班だったという。一般クラスであっても、高校卒業後、留学を選ぶ学生もおり、筆者が00年に取材した別の高校生は、一般クラスに在学中に日本語の塾に通い、日本に留学した(クラスのもう1人はドイツに留学したという)。
一般クラスに在籍中、日本など海外の私立高校に短期留学できる制度も多数設けられている。中国の中学・高校には全員参加を前提とする日本のような修学旅行はほとんどないが、コロナ禍前、夏休みに欧米のサマースクールに参加する中間層以上の学生は非常に多かった。つまり、中国の高校生たちにとって、海外はそれほど身近な存在となっている。
中国から世界への留学生数について、19年の中国教育部の統計で最も多いのは米国で約41万人だった。米国の留学生の約3割以上が中国人といわれている。ほかに留学先で多いのはカナダ、英国、オーストラリア、ニュージーランドなど。日本への留学生も多く、21年5月1日時点の文科省の調査では、約11万4000人で、留学生の中では断トツでトップだった(2位はベトナム人で約4万9000人)。
コロナ禍により日本への留学生数は全体的に減少しているが、中国人の減少幅は比較的少ないのが特徴だ(20年度の日本学生支援機構のデータでは、ベトナムからの留学生の増減率はマイナス15.2%だったが、中国は同マイナス2.1%だった)。中国人にとって日本留学は欧米などに比べて「安心、安全、安価」といわれ、とくに女子学生の場合、治安面などで不安が少なく、近距離であることから、家族も日本行きを勧める傾向がある。
丸暗記中心から全人格的な教育を行う「素質教育」重視へ
学生の意識変化をもたらした要因の2つ目は、2001年に中国教育部が打ち出した「基礎教育課程改革要綱」の発布だ。従来、科挙の伝統からあった丸暗記の学習を中心とする応試教育(受験のための詰め込み教育)が主流だったが、人間性を育て、全人格的な教育を行う素質教育が重視されるようになってきた。具体的には外国語教育と芸術分野、スポーツ教育の充実だ。
高考の外国語科目では英語のほか、ロシア語、日本語、フランス語など5カ国語を選択できるようになった。現実的には英語で受験する学生が今も圧倒的に多いのだが、ここ数年増えているのが日本語での受験だ。日本語を選択する学生は約10万人以上で、全体から見れば少ないが、近年は「試験問題が全国統一で、高校1~2年の短期間だけ勉強しても間に合う」という理由で急速に人気が出ている。
背景には、全国の高校に配置されている日本語教師の存在がある。1年前、筆者が電話取材した貴州省の山間の高校(生徒数約2000人)の教師によると、同校には日本語教師が5人いて、高考で日本語を選択した学生は150人以上もいたと聞いた。
スポーツや芸術分野の教育にも熱心に取り組んでいる。昨年、上海の私立小学校に子どもを入学させた筆者の友人によると、放課後、専門の指導者が学校にやってきて、週に2~3回、無料でテニスを教えてくれるという話だった。個人的にトレーナーや指導者を雇わなくても、複数のスポーツ競技やピアノ、バイオリンなどの指導も校内で受けることができるシステムになっていて、その友人自身も、子どもを入学させて初めて知ったと話していた。コロナ禍でオンライン教育も盛んになっており、海外で活躍する中国人の芸術家や、有名プロからオンラインで学ぶ機会もあるという。
このような素質教育の影響で、「勉強一辺倒で、1日10時間以上、机にかじりつく」といったイメージが強い中国の学生たちの学習環境はかなり様変わりし、本人たちの意識も変化している。
そうした面で、中国の教育界は進歩しており、いいことずくめのような気がするが、コロナ禍に加え、政府の締め付けにより大手ハイテク企業などが雇用を縮小していることなどの影響で、大卒者の就職難はかつてないほど高まっている。国家統計局のデータによると、今年7月の都市部の失業率は5.4%。16~24歳の若年層の失業率は19%を超えており、中国では「大学卒業、イコール失業」という言葉も飛び交った。
ゼロコロナ政策の影響もあるが、苦労して大学を卒業しても、マッチしたホワイトカラーの職業が圧倒的に不足していることなど、構造的な問題が大きい。昨今は新卒者の初任給とブルーカラーの給料に大差がないため、大卒後、稼ぎのいい現場の仕事に就く人や、親に資金を出してもらい、独立して事業を始める人、インフルエンサーとなる人などもいる。
不景気を反映して、公務員の人気は非常に高いが、競争率も高く、大学受験より就職のほうが難しいという声も聞く。とりあえず大学院へ行って時間稼ぎをする人も多く、修士課程への進学率も高まっている。このように、中国の教育界は著しく変化しているが、学生たちの就職先など「出口」はまだ整っておらず、問題は山積しているといえる。
(注記のない写真:A.K.I / PIXTA)