スランプに陥ることがある。「ウソでしょ」と言われるが本当だ。発想が枯渇し、いくら頭をたたいても何も出てこない。ヤケクソになって呼び水的に原稿用紙に向かい書き出してみるが、すぐ中断する。書いたものもくだらなく、とても人様にお見せできるようなものではない。丸めて捨て、自分の無才ぶりに愛想を尽かしてひっくり返る。
私が告げてきたのは「最初の1行さえ決まればあとは300枚でも400枚でも書ける」という大言壮語だ。私はものを書くプロセスを“パン作り”や“酒造り”に例えて考えている。パンも酒もバイオ(菌)の活動によってつくられる。発酵が十分でないと焼いてもかき回しても“未熟な”ものに仕上がってしまう。書き出してすぐダメだと思うのは発酵が十分でないからだ。
こういう状況になると私は誰かから聞いた次の言葉を思い出す。「今やっていることを打ち切ってまったく別のことをやれ」。すぐそうする。本を読む、テレビを見る、風呂に入る、散歩する、飲みに行く、電車に乗る、寝てしまう、など。
このやり方は実をいうと深い意味を持っている。哲学的でさえある。いちばんわかりやすいのは「捨てられた女に未練を持ち、その未練を発酵させてヨリを戻す」という例えだろう。
向こうが捨てたのにいつまでも未練たらしくしがみつくのはみっともない。太宰治が言っている。女性というのは「黙っていれば名を呼び追えば逃げる」と。捨てられたのにしつこく追い回せば、相手は嫌がっていよいよ逃げるだけだ。それならキッパリと別れ、やがて向こうが「○○さん」と名を呼ぶように仕向けることが大切だ。それが男というものだろう。だからそれなりの努力が必要になってくる。
私の場合も同じなのだ。書こうとする作品に捨てられたのだ。見限られたのである。そうであれば思い切りよくその作品(女)とは手を切って、別のことで生命を燃焼させるのだ。しかし別のことで生命を燃やしつつも、私は捨てた作品のことは忘れられない。どんなに興味あることをやっていても、作品のことを忘れられない。頭の一隅に溶けない根雪のように残っている。しがみついている。未練だ。
この記事は有料会員限定です
残り 518文字
