茨城県古河市の文化協会から歴史講演を頼まれた。「真田丸」とは関係ないので、“ご当地ソング”をふんだんに歌うべく、泥縄式の仕込みにかかった。
茨城県の大部分が旧国郡制によれば常陸国なのに、古河はなぜ下総国なのか。旧国郡制で前中後(越前・越中・越後など)や上中下(上越・中越・下越など)の区分けは、すべて都(京都)からの距離の遠近(近いほうが前や上)によっているにもかかわらず、上総と下総に限ってなぜ逆転しているのかなど、初っぱなから聴衆を引き込めそうなまき餌がたくさん見つかった。
まず古河の下総所属だが、「総」は麻あるいは大木のことだという。したがって総の国は麻の国のことだという。異説に「総とは木の枝のことで、あるときこの国に生えているクスノキの巨木が大惨事をもたらす、というので切り倒した。上枝の倒れた部分を上総、下枝の倒れた部分を下総と称した」とある。古河は下枝に入っていたのだろうか。
さらに、古代の江戸地方は利根川が流入しているため、雨期は水浸しになって道路が容易に築けない。そこで都から江戸地方へ行くためには、相模(神奈川県)の浦賀あたりから湾を渡って対岸の鋸山のふもと、金谷あたりに上陸する。そして陸路を北上する。つまり国道が陸路だけでなく、一部水道が加えられるということになる。この水道が都への近道になるので「上総」と称されたという。私としてはこの説がいちばん理解しやすい。
いずれにしても、利根川・荒川の流入による江戸地方の水浸しは、徳川時代まで克服されなかった。2川の河道改修工事は文禄3年(1594年)忍(おし)(行田市)城主松平忠吉の家臣、小笠原吉次によって開始され、その後関東郡代伊奈忠次と忠克に引き継がれ、利根川が太平洋に放流されるようになった。放水路として開設された江戸川も、東北と江戸をつなぐ重要な水路になった。承応3年(1654年)のことだという。すでに60年かかっている。
この記事は有料会員限定です
残り 624文字
