授業は「チョーク&トークで十分」を変えた出来事
学校の中にICT に精通している先生は、はたしてどのくらいいるだろうか。学校にもよるが、多くは少数派に違いない。だが、パソコンや周辺機器に詳しくても授業に活用できていない先生はいるし、そこまで詳しくなくても授業でうまく使えている先生もいる。
「大切なのは、授業に取り入れるビジョンや目的が確立されているか」と話すのは、愛媛県松山市にある私立の中高一貫校、愛光中学・高等学校の松下直樹氏だ。
これまで日本の学校教育におけるICTの活用は、必要性を問われながらもなかなか進んでこなかった。そこには、「チョーク&トーク」といった先生たちの授業に対する自信やプライドがあり、ICTは必要ないという考えが少なからずあったという声を多く聞く。
松下氏も「5年前、つまり今の学校に赴任するまでは自分の授業は、チョーク&トークで十分だと思っていて、教え方にはある程度の自信を持っていました。ICT教育って、必要なの?という気持ちだったと思います」と打ち明ける。こうした態度だった松下氏が変わったのは愛光中学・高等学校に赴任後、約1カ月が過ぎたゴールデンウィーク明けだった。
「僕の授業中に居眠りをする生徒が十数人現れました。考えてみれば、当然ですよね。俺の話を聞け! みたいな感じで自分の授業に酔っていて、恥ずかしながら生徒を主語にした学びをまったく実践できていなかったのですから」
授業が成立しない中で、何か工夫をしなければいけないと思い、まずは自分を主語にした授業はやめようと決意したという。そして、生徒たちを主語にして、彼らのために自分は何ができるのかを考えた。アクティブラーニングやICTを授業で活用するための勉強を始めたのも、そこからだった。
「ICTは教えるために必要だ、という観点で見ると切り捨ててしまう方もいますが、生徒の学びにとって必須と考えることが何より重要です」。こう話す松下氏は、いろいろな教員とぶつかりつつも対話をしながら学校内でICTの活用を働きかけてきたという。たとえICTを取り入れなくても、生徒のためにすばらしい授業をしている先生はたくさんいるが、子どもたちがこれからの社会を生きていくためにICTは必須と考えているからだ。
「時代はティーチングではなくてラーニングなんです。ICTは文具と同じであって、先生が教えるための教具ではないという発想の転換が求められているのではないでしょうか」
今が誰かに質問できるラストチャンス
ただ、新型コロナウイルスの感染拡大によるICTへの注目の高まり、GIGAスクール構想の前倒しなどで、もはや「使う前から使わないと言う人は減ってきている」と松下氏は話す。当然、今もGIGAスクールに否定的な意見を持つ先生も少なくないが、学校教育におけるICTの活用は待ったなしの状況だ。
「これまでICT化の波に乗れなかった先生は今がチャンス。いや、ラストチャンスなんです。GIGAスクール構想が始まったばかりだから、わからないことがあればいろいろ聞けるし、わからなかったことがわかった瞬間の喜びを共有することもできます。初歩的な失敗だって、今ならまだ笑い飛ばせる段階です。ですが、これが数年もすると『えっ、今さら?』って思われてしまいます」
松下氏の指摘は学校だけではなく、民間企業など多くの組織で共通することだ。時機を逃せば、質問できる窓口はどんどん狭くなって孤立無援になる。そうなると、今度は時代の大きなうねりに取り残された人たちが集まって、不満を吐き出し批判が始まる。決してそこに建設的なアイデアが生まれることはない。教員間のICTギャップを埋めるには、やはり今このタイミングしかないのだ。
今年8月、そんな松下氏が中心となって出版した『学校ICTサポートブック』は、これからICTを活用した授業に取り組もうとしていたり、機器の扱いにちょっと失敗して挫折しかけているけれど、もう一度やってみようという気持ちになりかけている先生たちの背中をそっと押すためにまとめられたものだという。
ICTやパソコンなどに詳しい先生方には物足りないかもしれないが、ICT化の波に乗るラストチャンスに遅れないよう「これでもか!」というほど徹底的に専門用語をそぎ落とした本で、誰でも気軽に手に取り読み進められる。
先生こそ失敗すべき、小さなきっかけの積み重ねで前へ進もう
書籍出版のきっかけは、2020年10月ごろに始めた松下氏と同僚の先生、教育アプリ企業の営業担当者による「大人の探究活動」だ。3人ともICT教育に強い関心を持っており、オンラインサロンの立ち上げをはじめ、さまざまなアイデアが浮かぶ中で「ICT関連の書籍を作ろう。やるからにはオンライン書店の売れ筋ランキング1位を獲得する」という目標にたどり着いた。
そこからSNSで参加者を募り、最終的に松下氏のチームには、執筆者11人(うち編著者3人)、4コマ漫画担当者1人の合計12人が集まった。学校の先生もいれば、EdTech企業勤めの人もいる。ICTの知識やスキルのレベルも、授業での取り組みや組織内でのポジションも皆バラバラだ。
「例えば、僕と同じ編著者の岩永崇史先生は、今年度からの1人1台端末導入を牽引してきた立役者ですが、そこに至るまでには並々ならぬ苦労があったと聞いています。教育のICT化実現のために、執筆者全員がずっといろんな葛藤を抱えてきたので、今、全国の先生方が置かれている状況はよく理解できます。
だからこそ、GIGAスクール構想の本格始動で悩んだり、困ったりしながらも一生懸命頑張っている先生方と同じ目線に立ち、クスッと笑ったり、うんうん、あるあるとうなずけたりするエピソードに落とし込んで、解決策や対処法を記そうと思ったのです」
とはいえコロナ禍だ。執筆者も全国各地に散らばっている。そのため編集会議はすべてオンライン、原稿のやり取りや校正作業もクラウドでファイルを共有して行ったという。原稿の原文がなくなるくらいまで赤字を入れて、わかりやすくかみ砕いた内容を目指した。そのかいあってか、メジャーなオンライン書店の「学校教育一般関連書籍」カテゴリーにおいて一時期、売れ筋ランキング1位を獲得、当初の目標を達成した。
「うれしかったのは、現役ICT支援員の方が『かわいい4コマ漫画でわかりやすく問題点を説明していて、読み進めると、まさに毎日の支援中に突き当たる端末や機器の不具合やエラーへの対処法、考え方などが詳しく記されており、大変参考になった』というレビューをしてくださったことです。僕らが意図したことが先生たちだけでなく、先生たちを支援する人たちにも伝わっている、共感して読んでもらえているとわかって、報われた気持ちになりました」
『学校ICTサポートブック』は、4章で構成されている。「1章 ICTぼくたちの失敗」「2章 ICTトラブルは突然に」「3章 ICTを語るより教育を語ろう(座談会)」「4章 今すぐICT(Q&A)」と、どれもタイトルがとてもユニークなのだが、目次からトラブル別に解決策を探すことができたり、今さら聞けないICTに関するそもそもの疑問を丁寧に解説してくれている。
例えば“あるある失敗”では、「自分のパソコンの画面を大型モニターに投影しようと思ったのに映らなくて焦った」「授業前日にICTを活用した教材作りに没頭していたら、いつの間にか朝を迎え、授業前にすでに疲労困憊だった」……など、GIGAスクールにまつわる先生たちの悲哀を4コマ漫画で描き、対処法をやさしく、楽しく解説している。
「突然、授業中にネット(Wi-Fi)がつながらなくなってしまった」なんてトラブルも “あるある”ではないだろうか。パソコンのどこ、Wi-Fi機器や無線ルーターの何を確認すればいいのか、どう対処すれば解決するのか、よくわからないのでいろんなボタンを押してみたという経験は誰にでもあるはずだ。授業を中断せざるをえないこともあり、かなり焦るトラブルだが、『学校ICTサポートブック』では “イエスノーチャート”で、今直面しているトラブルの状態を分析しながらベストな解決策にたどり着ける。あると便利、かつ安心といえる一冊ではないか。
教員間のICTギャップを埋めるのは、今このタイミングしかないとわかっていても、松下氏がそうだったように、自分自身を変えるにはきっかけがいる。
「私が勤める学校では授業のICT化は試行錯誤の真っただ中であるものの、校務のICT化はそれなりに進んでいます。例えば、よほど特別なことがない限り職員朝礼での口頭の伝達はなく、連絡事項はすべてオンラインの学校コミュニティーツールで行っています。毎朝このツールを使わないと生徒たちに大切な情報を伝えられないので、ICT教育に消極的な先生も使わざるをえません。
ただ、このツールを使っているとちょっとした隙間時間が生まれて、気持ち的にゆったりできると先生たちが気づき始めたんです。ICT化のメリットを実感できれば、授業中に学習支援アプリを使って生徒たちにアンケートを取ってみようかなという気にもなります。そして、実際やってみたら簡単に集計できて、すぐに結果を子どもたちに知らせることができるんだという喜びが得られます。ささいなことでもきっかけがあれば、こうやって一歩一歩進んでいくことが可能なのではないでしょうか」
もしかしたら、失敗していいんだよと子どもたちに声をかけながら、失敗することを最も恐れているのは先生たち自身なのかもしれない。授業中に生徒の前で端末のトラブルが発生したらどうしよう、こんな初歩的なことを聞いても恥ずかしくないかな……と思ったときこそ、一歩踏み出す勇気を持ってほしい。
(文:田中弘美、注記のない写真:cba/PIXTA)