GIGAスクール構想に対応する教育が日本にはなかった

欧米で取り組みが進んでいるという「デジタル・シティズンシップ教育」。実は今、日本でも急速に注目が集まっている。

「大阪府吹田市教育委員会はすでにデジタル・シティズンシップ教育の推進を打ち出しており、岐阜市は岐阜聖徳学園大学と協同で、広島県も県全体で取り組もうとしています。研修実施に動き始めている教委も複数あります」

そう話すのは、法政大学キャリアデザイン学部教授の坂本旬氏。2020年12月に発売された『デジタル・シティズンシップ~コンピュータ1人1台時代の善き使い手をめざす学び』(大月書店)の著者の一人だ。同書の初版は発売から1カ月ほどで売り切れ、坂本氏をはじめとする5人の著者に次々と学校や教育関係者から問い合わせがあったという。文部科学省が推進している教育ではないにもかかわらず、なぜこのような反響があったのか。

国内でデジタル・シティズンシップという言葉が知られるようになったのは、20年4月27日の「初等中等教育分科会(第125回)・新しい時代の初等中等教育の在り方特別部会(第7回)合同会議」でのこと。委員である認定NPO法人カタリバ代表理事の今村久美氏が、コロナ禍における提言をまとめた意見書の中でデジタル・シティズンシップ教育の重要性を訴えたことが1つのきっかけだという。

坂本氏の共著。同書の共著者、今度珠美氏と執筆した論文「日本におけるデジタル・シティズンシップ教育の可能性」も、中央教育審議会分科会に提出された今村氏の意見書に参照されたことを機に閲覧数が上がったという

さらに学校では、GIGAスクール構想の前倒しで、1人1台端末の整備が急ピッチで進んだ。「その中で、日本には端末活用に対応した教育がないということに現場が気づいたのでしょう。だから今、GIGAスクール構想にピッタリと合うデジタル・シティズンシップ教育への関心が高まっているのだと思います」と、坂本氏は分析する。

情報化に伴う教育といえば、日本ではこれまで「情報モラル教育」が推奨されてきた。しかし、これは「ネット依存症やSNSへの書き込みの影響など、インターネットの危険性を教えるだけで、使用を抑制する教育」(坂本氏)であり、ICTの活用を前提とするGIGAスクール構想の理念とは真逆の教育だという。

「今の子どもたちは、幼い頃からスマートフォンやオンラインゲームに慣れ親しんでいるデジタルネイティブですが、ネットの世界が公共の場であるという意識をまったく持っていません。SNSなどを利用すれば一生消えることのない『デジタル足跡』が残るという意識もない。教わっていないから仕方がないのですが、本来はきちんとデジタルアイデンティティーについて教えるべき。情報モラル教育には、こうしたICTとインターネットを利活用するに当たっての基本的な視点が欠けています」

SDGs教育との親和性が高く、海外では成果も

そのため、真に必要なのは「デジタル・シティズンシップ教育」だというが、いったいどのような教育なのか。

「簡単に言うと、ICTのよき使い手になると同時に、よき社会の担い手になることを目指す教育です。今、インターネットが社会インフラとなり、若い人たちは普通にSNSを使っています。その現実を前提に、市民としてどう生きていくべきかを考えさせ、責任あるICTの使い方と社会への貢献の仕方をしっかり教えようというもの。つまり、ネット空間だけのシティズンシップではなく、『デジタル時代のシティズンシップ』を育てていく教育なのです。

これまで年に1〜2回、児童生徒を集めてゲスト講師の話を聞かせて終わるような情報モラル教育を行ってきた学校は多いですが、それと置き換えればいいというものではありません。あらゆる教科で日常的に行うべきであり、22年度から高等学校で新設される『公共』の主権者教育につなげていく必要もあるでしょう」

さらに、幼い頃から学ばせることが重要だという。現在、残念ながら文科省作成の教材はないが、坂本氏は、推奨教材として米国のNPOコモン・センス・エデュケーション財団による「デジタル・シティズンシップ教材」を挙げる。幼稚園から高校生まで系統的に学ぶことができ、現在、米国では6割以上の学校がこの教材を使用しているという。

坂本氏と共にデジタル・シティズンシップ教育の普及に尽力する国際大学グローバル・コミュニケーション・センター准教授の豊福晋平氏が、同財団のクリエーティブ・コモンズ・ライセンスに基づき、この教材に日本語字幕を付けた動画(一部吹き替え版あり)をYouTubeで公開している。

ネットいじめやヘイトスピーチにどう対応すべきか、オンラインニュースとどう付き合うかなど、子ども自身に考えさせる内容は、「教員にとって参考になるはず」と、坂本氏は言う。実際、再生回数が増加しており、活用を始めている教員もいるそうだ。

豊福氏が公開している、NPOコモン・センス・エデュケーション財団の字幕付き教材。画像は小学校3年生向けの動画「責任のリング

例えば小学校3年生向けの動画「責任のリング」では3つの責任を学ぶ。ペットボトルを道端に捨てるという行動が周囲や環境に影響を及ぼすのと同じように、ネットでの振る舞いが自分自身の生活や、家族・友人など周囲の人たち、そして世界中の人々に影響を与える。それゆえ行動を起こす前に、「自分自身」「周囲の人々」「世界」という3つに対して責任があることを思い出し、どう行動すべきか考えることを促す内容になっている。

「この3つの責任の考え方は、まさにSDGs(※1)です。デジタル・シティズンシップ教育は、ポジティブかつESD(※2)との親和性が高いこともあり、『持続可能な社会の創り手』の育成を目指す日本でも受け入れられ始めたのでしょう」と、坂本氏は話す。

※1 持続可能な開発目標
※2 Education for Sustainable Development(持続可能な開発のための教育)

欧米では成果も出始めているという。例えば、米国ではネットいじめに関して、「Cyberbullying Research Center」という機関が2020年に9〜12歳の子ども1034人に対してアンケート調査を行った。

「それによると、デジタル・シティズンシップを学んだことで『ネットいじめを見かけたときに、いじめを止めようとする行動を取った』と答えた子どもは、全体の3分の2にも及んだそうです。自分自身がネットいじめを受けたときは相手をブロックする(60%)、親や大人に相談する(51%)など、半数以上が対処法を持っていることもわかりました」

今のままではGIGAスクール構想も民主主義も崩壊

デジタル・シティズンシップの考え方を広めたのは、1998年より情報教育基準(NETS)を作っている米国の国際教育テクノロジー学会(ISTE)だとされる。携帯電話の利用制限が有効ではないことやネットいじめを背景に、2007年版NETSにデジタル・シティズンシップが盛り込まれ、それを機に米国の教育政策にも反映されるようになったという。

2019年には欧州評議会が「デジタル・シティズンシップ教育ハンドブック」を作って研修を開始。同年、OECD(経済開発協力機構)も報告書「21世紀の子どもたちの教育――デジタル時代の情動的ウェルビーイングをめぐって」の中でデジタル・シティズンシップの重要性を強調した。

このように世界でデジタル・シティズンシップ教育の普及が加速しているのは、フェイクニュースの問題も関係している。

坂本旬(さかもと・じゅん)
法政大学キャリアデザイン学部教授、図書館司書課程担当。教育系出版社や週刊誌などの編集者を経験したのち、新聞社を中心に雑誌執筆者として活躍。1996年より法政大学教員。ユネスコのメディア情報リテラシープログラムの普及を目指すアジア太平洋メディア情報リテラシー教育センターおよび福島ESDコンソーシアム代表。基礎教育保障学会理事
(写真:本人提供)

「米国ではロシア発のフェイクニュースが大統領選に影響しました。21年1月には陰謀論やフェイクニュースを信じた前大統領の支持者が連邦議会議事堂を占拠する事件もありましたが、翌日には米タイム誌が『次の危機を止めたいなら、サイバー・シティズンシップ教育は国家的優先事項にならなければならない』というタイトルの記事を掲載するなど、社会全体で危機感が募っています。

フランスの憲法審議会やイタリアの超党派もフェイクニュースの報告書をまとめています。各国は国防問題として真剣に捉え、メディアリテラシー教育に取り組んでいるのに、日本だけが何もしておらず、その危険性すら誰も口にしません。日本が民主主義国家であり続けるためにも、メディアリテラシーの土台となるデジタル・シティズンシップ教育が急務です」

幸い、前述のように、国内でもデジタル・シティズンシップ教育に関心を向ける自治体が出てきている。SDGsやダイバーシティー&インクルージョンに取り組まなければならない関係から企業のニーズもあり、「デジタル・シティズンシップは今後、社会全体で語られるようになっていくのでは」と坂本氏は話す。関心の高まりを受け、今後は日本向けのオリジナル教材の制作を豊福氏らと検討していくという。

しかし、デジタル・シティズンシップ教育に取り組む学校が一部にとどまった場合、どうなるか。教育格差が広がるのはもちろん、「1人1台端末は文鎮化し、GIGAスクール構想そのものが崩壊しかねません」と、坂本氏は懸念する。すでにICT活用は格差が生じている。

「私は大学の授業でSNSを使った海外交流なども行いますが、基本すら知らない学生が多く、新入生にはSNSの使い方から教えています。一方、私立を中心に、先進的な高校はICT活用やデジタル・シティズンシップの育成ができているため、学生間で格差が開いている。これは大きな問題だと捉えており、教育界全体でデジタル・シティズンシップ教育に取り組むべきだと考えています」

(注記のない写真はiStock)