ある生徒の就職相談で頭が真っ白に
「プログラミングや探究学習について学びたいと思っても、研修機会が少ない」といった状況に悩む教員は、少なくないのではないだろうか。こうした「これからの教育をつくるために必要な知識にもかかわらず、学校では学べない領域」に触れることができる場を提供するのが、「先生の学校」だ。
2016年のサービス開始以来、イベントとツアー企画を活動の柱としていたが、20年7月に事業をリモデルして新たなスタートを切った。イベントはすべてオンライン化。会員になると各種イベントに無料もしくは特別価格で参加でき、共同参画プロジェクトの参加権やオリジナル雑誌送付の特典などが受けられる仕組みにした。
現在、会員数は1000人超。教員だけでなく、教育に興味のある人なら誰でも参加でき、7割が教員、そのほかは自営業や会社員、主婦、学生が占める。20代~60代と年齢層も幅広い。教員同士の勉強会コミュニティーはよくあるが、教員と社会人が教育について考えることができる場は珍しい。そんな新たな事業を手がける社会起業家、スマイルバトン代表取締役社長の三原菜央氏とは、いったいどのような人物なのか。
三原氏は、大学卒業後は保育士や幼稚園教諭を養成する専門学校に教員として8年間ほど勤務していた。ちなみに両親も教員だ。自身も教員は天職だと思って働いていたが、ある日転機が訪れる。
「生徒の大半が保育園や幼稚園、施設へ就職する中、ある男子生徒が『一般企業に就職したい。先生のお薦めの企業を教えてほしい』と相談しにきました。保育士は給与水準が決して高いわけではないので、保育士以外の道へ進みたい、と。そのとき私は、頭が真っ白になってしまい、彼が求めているような答えを返してあげることができなかったのです。
『どこの保育園に就職できるか』ということには相談に乗れても、企業のこと、学校以外の社会のことについて、自分の言葉で伝えられなかった。自分は世の中のことをわかっているようなつもりで生徒たちの相談に乗っていたけれど、本当はよく知らないのではないか。ならば、自分自身が社会を体験してみよう。そう思ったのです」
「社会と教育現場」がつながっていない
三原氏は悩みに悩んだ揚げ句、教員を辞め、ベンチャー企業や大手事業会社などで実際のビジネスを学んでいった。そして、新たな思いを抱くようになる。
「教育現場で育んだ力と、社会で必要とされる力が乖離しており、もっと教育現場と社会がつながる必要性があると感じました。もし先生が先生以外の人たちと学び合える場をつくったら、もっと先生の視野が広がり、子どもたちにも新たな選択肢や機会を提供できるのではないかと考えたのです。
また、そのとき私は32歳。自分のためだけに使う時間は十分使い切ったという感覚があり、これからは次世代を担う子どもたちのために自分の力や時間を使っていきたいと思いました。次世代が思わず笑顔になってしまうような社会をつくりたいな、と。こうした思いと以前から抱いていた課題感が重なり合い、『先生の学校』を始めることになったのです」
しかし、最初から起業を選択したわけではない。当時勤めていた会社が副業を許可していたことから、会社員の傍ら「先生の学校」をスタートさせた。
「リスクヘッジの観点からは環境として恵まれていましたが、第1回目のイベントは失敗でしたね。『先生の学校』がまだ無名にもかかわらず、500人収容できる会場を選んだため、ガランとした中で開催してしまった。コンテンツの内容も自分のエゴを押し付けていたなと反省しました。その後は、身の丈に合った本当に価値あるものを提供しようとマインドを切り替えて、30人規模のイベントを毎月行うようになりました」
そんな三原氏が手応えを感じたのはスタートして1年ほど経った頃。あるイベントの中で、数学の教員が「僕が教えていることは社会では全然役に立ちませんよ」と自虐的なコメントをしたところ、大手企業でマーケティングを担当する女性が「そんなことはありません。私は高校の数学が、今マーケティングにすごく役立っていますよ」と返したという。
「その言葉を聞いた途端、数学の先生の表情がみるみる変わったのです。自分が教えたことが社会で生きているという気づきがあったのでしょう。女性のほうにも何らかの発見があったのではないかと思います。先生を社会につないでいくことに価値を感じた出来事でした」
教員と会社員を経て「社会起業家」に
活動を続けること約3年半。18年の年末に、たまたまTwitterで「ボーダレス・ジャパン」代表の田口一成氏のインタビュー記事を見つけた。同社は、「自社で育てた社会起業家が手がけるソーシャルビジネスを通じて社会課題の解決に取り組む」という独自の仕組みで近年業績を伸ばし、注目を集めている企業だった。
格差を生む資本主義に以前から疑問を感じていた三原氏は、同社の取り組みに共感する部分が多かったという。そして、そこには社会起業家を育成するアカデミーがあることを知り、参加した。
その研修を通じて「志の高い仲間と切磋琢磨できる環境にひかれた」という三原氏。20年1月、ついに会社員を辞め、同社の社会起業家の1人として参画し、出資を受ける形で20年3月に「先生の学校」を株式会社化した。
まずは「3万人以上」の教員の意識を変える
「社会ではいまだにいい高校、いい大学に入ることが『目指すべき幸せの形』というステレオタイプが根強く、『学力』という物差しだけで子どもたちの価値を決めてしまうような偏差値偏重の仕組みから脱却できていないことが大きな問題だと考えています。
レールを一度外れると、自分の行きたい方向に行けなくなってしまう。そんな社会を変えていきたい。2020年度から新学習指導要領がスタートして教育改革が進められていますが、学校だけでなく企業側も学歴で区別する考え方から変わるべきです。
そのためにも教育界を変革しようとするプレーヤーがもっと増えてほしい。20世紀に起きた多くの市民活動を調査したところ、変化や革命は賛同する人がその集団の3.5%に達したときに生まれるケースが多いといわれています。小中高の先生は今国内に約100万人いますが、そのうち3万人以上の意識を変えていくことが、私の1つの仕事だと考えています」
公立校における、横並びの組織文化にも警鐘を鳴らす。例えばコロナ禍で公平性を理由にオンライン授業を実施しなかった学校が多かったが、このことについて「対応を一律にするのではなく、端末を用意できる子どもにはICTを活用し、用意できない子どもにはプリントを配付して電話で対応するという選択肢もあったと思います」と三原氏は話す。
「公平性でいうなら、『ギフテッド』と呼ばれるような能力の高い子どもはどうなるのか。才能を発揮する選択肢が乏しく、せっかくの能力が潰されかねません。公立の学校が誰にとっても最高の場になることが私の願いですが、そのためには教育現場が横並びの意識を捨て、個別最適化された学びを実現していかなければならないと思っています」
しかし今の組織文化では、改革を志す教員ほど学校の中では孤独を強いられていて、つらそうに見えるという。また、急速に広まるICT活用に戸惑う教員も多く、そもそもICTがなぜ現場に入ってきたか腹落ちしていないケースも少なくないそうだ。
「そんな苦闘する先生たちにこそ、私たちのコミュニティーがサードプレースになるといいですね。同じ志を持った人たちと出会うことで、先生たちが自身の可能性や個性を開放していってほしいと考えています」
今、「先生の学校」には教員だけでなく、教育の現状に違和感を持った子育て中の人や、教育事業を立ち上げる参考のためにとやって来るビジネスパーソンなど幅広いユーザーが参加している。三原氏は今後、学校と、社会で活躍する各分野のプロフェッショナルをつなぐプラットフォームを開発するなど、教育と社会の接続を強化していきたいという。
「ウェルビーイングという言葉が最近よく聞かれますが、私もこれからの教育は、一律ではなく1人ひとりの子どもたちの幸せにコミットするものであってほしいと思っています。今、先生たちはティーチングだけでなく、ファシリテーターやコーチングの役割も求められています。そんな新たな教育の形を実現していくためにも、先生たちのサポートを今後も続けていきたいと考えています」
(写真はすべて三原菜央氏提供)