何も手を打たなければ、学校はおろか、島からも人がいなくなる――。強い危機感の下、「高校の存続こそが、島全体の存続に直結する」として、魅力的で持続可能な学校と地域づくりを目指す「隠岐島前教育魅力化プロジェクト」に取り組んできた4人のキーマンがいる。

島根県立隠岐島前高校のある海士(あま)町で副町長を務める吉元操氏、学校を核とした地方創生を手がける一般財団法人 地域・教育魅力化プラットフォームの代表理事で島根県教育魅力化特命官の岩本悠氏、海士町立福井小学校校長の濱板健一氏、公立塾隠岐國学習センター長の豊田庄吾氏だ。

存続が危ぶまれていた島根県立隠岐島前高校。島根半島の北方約50kmに位置する隠岐諸島は、島前(どうぜん)と島後(どうご)に分けられ、知夫村がある知夫里島(ちぶりじま)・海士町がある中ノ島(なかのしま)・西ノ島町がある西ノ島(にしのしま)の3島を島前と呼ぶ。島前高校は、この島前地域で唯一の高校だ

ここでは約15年にわたる取り組みを4人に振り返ってもらい、“地域社会への学校の開き方”や“教育に携わる大人が持つべき心構え”などについて考えることで、これからの地方創生のあり方について探った。

統廃合寸前からの出発、人が集まるまで

――実際に「隠岐島前教育魅力化プロジェクト」(以下、魅力化プロジェクト)が始まる前、高校は統廃合寸前だったのでしょうか。

吉元操(よしもと・みさお)
海士町副町長
1982年に海士町役場に入庁。行財政改革特命事務担当課長、財政課長などを務め、2004年に高校の存続問題に取り組む重要性を盛り込んだ「自立促進プラン」を策定。08年から本格的に島前高校魅力化プロジェクトを担当。18年に辞職し、現職

吉元:いちばん多い時で約250人いた生徒数が、どんどん減って89人となり、2クラスが1クラスになるところまで追い込まれていました。島前地域全体で見ても、20・30代の子育て世代が大幅に流出し、出生数も減少の一途。高校がなくなれば、Uターンする子育て世代はさらに減っていくことが予測されました。そこで、交流事業の一環で島にやってきた岩本くんに、高校の存続問題について相談したのが、魅力化プロジェクトを始めるきっかけになりました。

岩本:僕は、それまで民間企業で人材育成を担当していたのですが、子どもたちには進学のための学力だけでない、その先を見据えた力を身に付けてもらいたいと考えていました。そんなときにちょうど出前授業をする機会があり、この島の「まちづくりの原点は、人づくり」という考え方に共感したんです。また、この島が直面している過疎化や高校存続の危機などは、少子化が進む日本全体が今後直面する課題。この島の課題に挑戦することは、ほかの地域や日本、また世界にもつながる「小さくても大きな一歩」になると考えたことも、魅力化プロジェクトの立ち上げに携わることになったきっかけです。

――その後、魅力化プロジェクトが立ち上がり、推進のために社会教育主事として島前高校にいらっしゃったのが、濱板先生ですね。一般的に社会教育主事といえば、都道府県や市町村で地域の社会教育行政の企画・実施、助言・指導を通して人々の自発的な学習活動を援助する役割を担います。

岩本悠(いわもと・ゆう)
一般財団法人「地域・教育魅力化プラットフォーム」代表理事/島根県教育魅力化特命官
大学卒業後にソニーで人材育成・組織開発・社会貢献事業に従事する傍ら、学校・大学における開発教育・キャリア教育に取り組む。2007年から島前高校魅力化プロジェクトの立ち上げに参画し、20年6月より現職

濱板:それまで、社会教育主事が高校に派遣された事例は、日本全国どこにもなかったんですが、吉元さんをはじめ岩本くんたちが教育委員会の方に理解を求めてくれて、自分は派遣されました。その前は小学校の教諭をしていたので、社会教育主事と聞いてもまったくイメージが湧かず、不安がかなり大きかったのを覚えています。

吉元:誰が適任かとフェリーに乗って悩んでいたときに、濱板先生が乗ってきて、再会して。「あ、この人がおったわい」と。濱板先生とのラッキーな出会いですわ。

岩本:もともと魅力化プロジェクトは、島前高校という名前のとおり3町村の高校として、高校がある海士町だけでなく西ノ島町、知夫村を含めた3町村で一緒にやっていきたいという思いがありました。濱板先生は西ノ島町ご出身で、知夫村にも詳しい方でしたので、地域と学校の両方のことがわかりコーディネートできる適任者ということで、ぜひお願いしますと。

――2009年に、吉元さん、岩本さん、濱板さんの3人で、現在の島前高校の理念や施策にもつながる、高校を地域づくりや人づくりの拠点と捉えた「隠岐島前高等学校魅力化構想」(以下、魅力化構想)を作られていますね。

濱板健一(はまいた・けんいち)
海士町立福井小学校校長
1965年島根県生まれ。87年より西ノ島町立西ノ島小学校教諭、2007年より海士町教育委員会 派遣社会教育主事として、島前高校魅力化プロジェクトに携わる。19年より現職

濱板:魅力化構想を作るうえでは、島前内の中学校に通う生徒と保護者、さらに島前高校の先生や地域の方々に、「島前高校の強みと弱み」「行かせたい理由と行かせたくない理由」などをそれぞれ質問事項にまとめ、アンケートを取りました。生徒・保護者・先生・地域の方々のいろんなニーズや課題感を基に、構想案を策定しました。

岩本:島前高校に行かない選択をした子どもたちや保護者の方々のアンケートを見ると、島では希望する進路実現がかなわないと考えている人が多くいました。そのため魅力化構想には、学力向上のためのカリキュラムや教職員の充実など、教育的基盤の強化を急務として盛り込みました。また当時から、島前地域に愛着や誇りを持って、この地域で自己実現を果たしていくような未来の担い手を育てたいと考えていました。そのため、魅力化構想の中には、地域を舞台にした学びや探究の提供も盛り込んでいます。

吉元:僕は最初、魅力化構想を策定するうえで、東京の進学校など他校の視察に行って、それらの学校のよいところなどをまねしようと思っていました。でも東京と島前では置かれている環境がまったく異なるということを岩本くんに言われて、確かにそうだなと。「地域の特性を生かした学校づくり」をすべきだというのは、後から気づきましたね。

――魅力化構想にある「学力向上とキャリア教育の充実」の実現に当たり、09年に一人ひとりの得意を生かした進路実現を支援する公立塾「隠岐國学習センター」が設立され、豊田さんが講師として島前にいらっしゃいます。

豊田:最初は僕、岩本くんだけがすごくて、島前に移住する人が増えているのかなと思っていたんですけど……行ってみると、吉元さんの当事者性の甚だしさとか行動の甚だしさ、濱板先生の地域と地域、島と島をつなぐ、つなぎ手としての存在感が圧倒的で。島の大人がただ者でないなと感じて、移住を決めました。

地域社会に学校を開き、つなぐために

――地域社会に高校を開くに当たって、さまざまなステークホルダーと利害関係を超えて協力し合うために、具体的に行ったことなどはありますか?

豊田庄吾(とよた・しょうご)
公立塾隠岐國学習センター長
1996年、広島大学総合科学部卒業。その後リクルートの関連会社にて人事、人材育成会社ウィル・シードにて大手企業や省庁の研修講師を務め、経済産業省の起業家教育促進事業では全国300校以上の公立学校にて起業家精神育成の出前授業を行う。2010年から現職

 豊田:島根県内には、もともと大学受験に特化した塾や予備校というものが少なく、公立高校がその役割を担っていました。ですから、学習センターを開くことは、教員や学校を信じていないというメッセージにも取られかねなかった。最初の5年くらいは、学習センターが学校と対立構図をなす存在ではないということを理解してもらえるように、とにかく高校の先生とミーティングをする機会をたくさんつくっていました。あとは、外から来た大人や島の人に、対話や実践を通して自分の興味や夢を明確にしていくための授業「夢ゼミ」を見学してもらっていました。子どもたちが将来について真剣に考えて、自分の夢を語る姿を見ることで、応援するようになってくれた人もいましたね。

濱板:高校の先生や地域の議員さんたちと一緒に、自分たちが目指す課題解決型の学習を実施している他校に視察に行ったことも大きかった。他校の生徒の話を聞いたり、自分たちの取り組みを話したりする中で、見聞きした話を持ち寄って懇親を深めて。協力者になってほしい先生の、懇親会の座席位置までこだわって決めたりしていました(笑)。実際、その先生に協力的になってもらうことで展開が変わったりして。そういうことの積み重ねだった気がします。

一人ひとりの得意を生かした進路実現を支援する公立塾「隠岐國学習センター」

吉元:魅力化のスタッフと学校の先生が一致団結できるように、島留学が始まった後も先生に対してアンケートを取ったりしたよね。現場で生徒と直接関わっているのは先生なので、その先生の気持ちを高めるために、不満をまず吐き出させないといけんと。

――魅力化の取り組みの中では、アンケートなどで幾度も課題をヒアリングされています。「島前高校には、刺激や競争がない」「多様な価値観との出合いがない」「新しい人間関係をつくる機会がない」などの声を基に全国から入学者を募る「島留学」制度も作られました。普段から、自らの弱みをさらけ出して改善するということを意識されていたのでしょうか。

先生や地域住民と何度も議論を重ねた

岩本:僕は基本的に自分の弱いところを見せられないし、頑固なのか、割と自分のスタイルを変えられないところもあって。吉元さんには当時、「つらい」「苦しい」「困っている」というのを見せていかないと、人は共感しないし応援したいと思わないと言われました(笑)。そこからは意識して弱音を吐いたりとか、いろいろ指摘してもらって、自分自身を変えていく努力をしましたね。

吉元:人の悪口を言ったほうが、人間味があっていいよというアドバイスもしたんだけど、岩本くんは最後までできんかったね(笑)。つねに、自分たちが間違ってるんじゃないかと見直す姿勢を崩さなかった。実際、自分が正しくて相手が間違っているという考え方で先生と対立してもダメだし、教育委員会と対立してもダメだし、3町村で対立してもダメだし、っていうことで「三方よし」を合言葉にしていたよね。

岩本:確かに「三方よし」は合言葉なのか理念なのか、キーワードでしたね。吉元さんはそういうふうに言ってくださるけど、僕は基本的に自分が正しいと思っている人間で(笑)。自分が正しくてほかの人が間違っていると思っていると、人を批判して、何でわかってくれないんだ、あいつらはダメだという話になってしまう。それで何度も失敗しました。「自分の見えていないものがあるとしたら、どの部分なのか」を考えて自分から変わっていかないと、うまくやれないということを痛いほどわかって、改善していったというのはあるかもしれません。

――失敗して反省し、改善するといったサイクルは、どのように回されていたのでしょうか。

濱板:作戦会議を頻繁にしていましたが、「誰が・どのタイミングで・どんなシチュエーションで」その話を持っていったらいちばん有効かなどを話し合っていましたね。実践して、失敗したら、次の作戦を練っての繰り返し。最初は苦痛だったけれども、だんだん楽しくなってきて(笑)。

豊田:いわゆるPDCAを、本当に早く回していましたね。パーフェクトな計画を立てるよりも先にDOをやって、そこから振り返る。PDCAのAは「謝る」だっけと思うほど、失敗しては謝っていました(笑)。いろんな利害関係者たちが、この打ち手をどう見るだろうと思いを巡らせながら、「確かにこれは学校の先生が感情的にいい気持ちがしないからやめようか」とか、そういうことの繰り返しでしたね。

――そんな魅力化の取り組みを通して、結果的に3町村の関係はどのように変わったと思われますか。

吉元:島前高校の島留学や島親制度なんかを通して、地域の方々と信頼関係を構築できるようになったね。島全体を学校に見立てて、地域の方々が島留学に来た生徒の「島親」として島の仕事を教えたり、一緒に自然体験したりと協力し合ったことで、3町村の人たち皆で喜びを分かち合えるようになった。

岩本:日本全国から中高生の参加者を集め、島内3町村の中高生と共に、島の「ヒト」の魅力を堪能する旅企画「ヒトツナギツアー」の取り組みも、3町村で1つのことをやっていく最初の大きな一歩になったと思います。高校生が一生懸命、島前の魅力を体感してもらえる旅とは何かを模索する中で、地域の方々も協力してくれました。

「ヒト」の魅力を堪能する旅企画「ヒトツナギツアー」の交流パーティー

濱板:最近は、島前高校を選択肢として考える生徒や保護者の方が圧倒的に増えたと感じています。とくに島前高校は海士町に位置していることから、西ノ島町や知夫村からの入学率が低かったんですが、「海士町の高校」というより「島前の高校」と認識してもらえるようになった。学園祭の活動を一緒にするなど、地域住民の共通の話題ができたことも大きいと思います。

豊田:直接地域の方から聞いたところで言うと、隣の島に負けたくないというライバル心はありつつも、島前高校のためなら一緒に頑張りたいという気持ちが醸成されつつあるようです。当初は「島前」という単位で動くことが少なかったけど、今は教育だけでなく、福祉や医療、観光の分野などでも、「島前」として一緒にやっていこうという雰囲気になっていますね。

岩本:島前高校で3年間過ごした生徒たちって、島外からの多様な生徒たちと地域のために協力して物事を成し遂げるという貴重な体験を通して、それぞれの個性を認めて活かし合う力を身に付け、さらに「島前」というつながりを持って卒業していますよね。だからこそ、彼らがUターンやIターンなどで帰ってきたときには、島前地域はさらに変わっていくんじゃないかなと思います。

吉元:そういえば、去年Uターンしてきて海士町役場に勤めている24歳の子がいるんだけど、家督会(あとどかい)という、いわゆる島前高校のOB会をつくったり、大学生を中心とした就業体験制度「大人の島留学」を実施したりしているよね。

豊田:その企画を担当している子は、海士町生まれ海士町育ち、海士町の役場に勤めていて、「海士町のために」となってもいいはずなのに、「大人の島留学は島前3町村の枠組みでやりたい」と言っているんですよね。「島前のために」というよりは、「島前高校で共に過ごした西ノ島や知夫村の同級生のために」という感覚に聞こえます。

これからの島前と、魅力化の取り組み

――コロナ禍においても島前内の学校は休校措置を取らず、オンラインでの授業を実施されていましたね。

濱板:隠岐國学習センターのスタッフの方にお手伝いいただいて、レンタルのモバイル端末などオンラインでいつでもコミュニケーションが取れる環境を整えたことで、緊急事態宣言下の全国一斉休校のタイミングでも、島の学校は授業を続けることができました。今は対面授業を再開していますが、いつでもオンライン授業ができるという安心感はありますね。

豊田:高校も同様に、今は通常授業をしています。学習センターを含め、島の外部からゲストを呼んで対話するようなキャリア教育の授業などは、オンラインで実施しています。

島の外部からゲストを呼んで対話する授業なども実施

濱板:コロナにかかわらず、学習センターと学校の間で、お互いの持っているスキルや情報の交換は日常的にやっています。この前は、学習センターのICT教育ディレクターの方に来ていただいて、個別最適化の学習ソフトの設定や検証をしてもらいました。

豊田:海で隔てられた3町村それぞれに小学校・中学校があり、そして島前高校があるので、私たち学習センターは、そこをインターネットでつなぐ技術サポートやアドバイスもさせてもらったりもしていますね。

濱板:自由に出入りしてもらっていて、ある意味小学校のスタッフと思えるくらい(笑)。

――教育に携わる大人がまず率先して持つべき心構え、取り組むべきことについてお聞かせください。

吉元:地域のどこに強さがあるのか。つい悪いところばかりが見えてしまうけれども、魅力となる強みはどこにあるのか、それを生かせるように考えることが重要だと思います。子どもの教育も同じで、弱みをサポートしながら強みを引き出す気持ちを持つこと。そして、諦めない気持ちを持って、粘り強く努力をし続けることが大事だと考えています。

生徒数が増え活気を取り戻した島根県立隠岐島前高校

岩本:今振り返ってみると、主体的に物事を探究していく姿勢や、多様な人と学び合い協働していく姿勢など、普段子どもたちに身に付けてほしいと思っている力を、僕ら自身が意識せざるをえなかったなと感じています。「よそ者」であった僕が、「何で自分がこんな役回りになってるんだ」と思いながらも、何をしたらうまくいくのかを、教員や地域の人とチームで試行錯誤し続けるしかなかった。

濱板:私も当初は「何で自分がこんな役回りに」という気持ちがありましたが、それこそ岩本くんや豊田さんなどの島の外から来て頑張っている人たちと一緒にやっていくうちに、いろんな問題処理というか、トラブル処理みたいなことを不思議とやりたくなっていました(笑)。「できるかできないか」ではなくて、「どうしたらできるか」に知恵を絞ることを、このプロジェクトで培いましたね。これから生きていく子どもたちにも、そういった力をぜひ身に付けてほしいなと思います。

豊田:やっぱり子どもたちに身に付けてほしい力を自分が実践できているかどうかは、つねに意識したいですね。最近大事だと思うキーワードは、「アンラーン」すること。「学ぶ」の反対で、手放していくというか、自分のこだわりを捨てて手放していく感覚です。「自分が今まで身に付けてきた考え方は、本当に正しいのか」という観点は、僕なんか最近なかなかできなくなってきたなと感じていて。でもそんな意識こそ、「三方よし」や「多文化共生」につながっているんじゃないかなと思います。

――みなさんが、それぞれ次に目指されていることは何ですか。

岩本:今後は島前高校だけでなく、日本の高校教育だとか、地域における次世代の人づくりだとか、そういった大きなところにつながっていってほしいなと思っています。島前地域の取り組みも、今がゴールや完成形になっているわけではないと思うので。僕自身は今、地域・教育魅力化プラットフォームの代表理事として、日本の高校進学における新たな選択肢を増やすべく、都道府県の枠を超えて地域の学校に入学できる「地域みらい留学」などの取り組みを推進しています。

豊田:今まで学習センターは子どもが育つ学びというところで頑張ってきましたが、今後はそこから少しずつ、地域全体が育つ学びにシフトしていきたいと思っています。とはいえ、「子どもが育つ」から「地域が育つ」間には「大人が育つ」ことが必要不可欠。大人への伴走や支援に力を入れて取り組むことで、島で育った子どもが志を果たしに戻ってきやすくなるサイクルを作りたいですね。そのために今は、地域づくり、人づくり、つながりづくりをテーマにオンライン研修をしたり、離れていてもお互いに学び合えるようなプラットフォームのベースを作ったりしています。知識を持っている個人に学びを請うスタイルでなく、共学共創で一緒に学んでいく、教え合う場として機能していけばと考えています。

濱板:私は小学校の校長先生として(笑)、できることをやっていくだけです。

(写真はすべて「隠岐島前教育魅力化プロジェクト」提供)