48歳バンドマンの「しぶとすぎる」生き残り術 結成28年、酸いも甘いも噛み分け進んできた

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フラワーカンパニーズの活動は順調で、半年後には東海地方で名門といわれるライブハウス・名古屋Electric Lady Land(通称E.L.L.)に月イチでブッキングされるようになる。当時アマチュアバンドがライブハウスに出演するためには、そこにデモ音源を送って合格する必要があったが、この関門を一発でクリア。翌年夏には若手バンドのイベント「TOYOTA YOUNG MUSIC FESTIVAL」で優勝し、ソニーの新人発掘部署の人から声をかけられるようにもなった。ソニーといえばメジャーレーベルを複数持つ企業。メジャーデビューが現実的な目標として見えてくる位置に来ていた。

当時は、プロを目指す気がなかったという(写真:村田らむ)

しかし、当時のマエカワさんはプロを目指す気がなかったという。

「食べていける感覚がまったくなかったですね。プロで売れるまでフリーターで頑張るとかそういうタイプでもなかったですし、大学で経営学部を選んだのも将来潰しが利きそうと思ってのことでしたし。人としゃべることが好きだから、将来は営業の仕事をやるのかな~なんて思っていました。

鈴木は当初からプロになりたいと言っていたけど、小西もそんな感じじゃなかったし、竹安もたぶん何も考えてなかったんじゃないかと思いますね」

ライブを重ねるたびに感じる可能性

一方で、ライブを重ねるたびにフラワーカンパニーズの可能性を強く感じてもいた。大学4年になり、周りが就職活動するなかで、8月に出演したライブで迷いが吹っ切れる。

「先輩のライブに呼ばれて出たんですけど、動員もよくて、最後のセッションもあまりに楽しくて。これは就職して終わらせてしまうのは惜しすぎるなと。その翌日か翌々日に母親に『就職せずにしばらくフリーターやらせて』と言ったと思います。無茶苦茶驚かれましたね」

バブル期の当時、フリーターはまだまだ少ない時代で、マエカワさんの周りでも「バンドしたい奴しかいなかった」というくらいだった。それでもバイトしながらメジャーで成功することを目指して1本で戦う決意を固める。卒業間際、ソニーのインディーズレーベルからアルバムが出せたことも大きなモチベーションとなった。

上京したのは翌年の1994年。晴れてメジャーデビューが決まり、秋からは給料が出るようになり、そこで皆バイトを辞めた。1995年に1stアルバムを出すと、以降は毎年アルバムをリリースし、メディアにも積極的に露出するなどスターダムに向かうレールに乗った状態になる。

いや、乗せられた状態というほうが正確かもしれない。

レールと自分たちとのズレを感じるようになったのは、1998年に5thアルバム『マンモスフラワー』を出してからだ。同アルバムはバンドにとって最高セールスを記録するが、レーベルが想定した数字に届いてはいなかった。想定した成長曲線に合わせて数年先まで予算をつぎ込んでいくメジャーのビジネスモデルからすれば、飛躍ではなく、つまずきといえた。

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